鯨のモニュメント
和歌山県太地町
2674号(2009年3月23日) 太地町長 三軒 一高
本町は紀伊半島の南端に位置し、総面積5.96平方キロメートルの半島形の小規模な町で、全体が熊野灘に面し、海岸線は豪壮優美なリアス式を形成しています。西南に那智山系を配し、北西に森浦湾の静かな入り江、北東に常渡(じょうど)半島、南東に平見の丘陵地を擁して、その中心に天然の良港とされる太地港があり、南岸の河立(こたち)から継子投(ままこなげ)、梶取崎(かんどりざき)、燈明崎(とうみょうざき)に至る海岸線や常渡の風光明媚な眺めは、大自然のパノラマと絶賛を受け、昭和11年2月1日、吉野熊野国立公園として指定されました。
気候は南国特有の温暖湿潤で、冬期にはほとんど降雪をみない温暖な日が続き、夏期には湿った南風を受けて、比較的雨が多く、特に沖を流れる暖流黒潮の影響が大きく、典型的な太平洋岸気候を呈しています。
明治21年の村制実施に伴い、明治22年4月1日太地村と森浦村の両村を合併し太地村となりましたが、人口の増加と共に大正14年4月1日より町制が施行され太地町として今日に至っています。人口は約3,600人の小さな町です。
太地は古式捕鯨発祥の地として名高く、当地の豪族和田家一族の忠兵衛頼元(ちゅうべえよりもと)が、尾張師崎(おわりしざき)(知多半島の突端)の漁師・伝次と泉州堺の浪人・伊右衛門と共に、捕鯨技術の研究を進め慶長11年(1606年)太地浦を基地として大々的に「突捕(つきとり)漁法」による捕鯨を始めました。
その後、延宝3年(1675年)和田頼治(わだよりはる)が「網掛突捕法(あみかけつきとりほう)」を考案したことによって、太地の捕鯨は飛躍的に発展、宗家和田、分家太地家を宰領として鯨組をつくり、村ぐるみで鯨を追うことになりました。
紀州藩の保護もあって熊野灘の捕鯨は最盛期を迎えますが、明治11年12月24日背美(せみ)鯨の親子を捕らえようとして漂流し、遠くは伊豆諸島まで流され百有余名の鯨方を失う一大惨事に遭遇することになります。また、西洋式捕鯨法が導入され鯨の回遊も減少するにつれて、太地捕鯨は次第に衰退の途を歩み始めましたが、「鯨の町」としての在り方はその後も変わらず、古式捕鯨の伝統を受け継ぎながら、近海での小型捕鯨が続けられ、また、南氷洋捕鯨のキャッチャーボートの砲手として、乗組員として町から参加する者も多く、優秀な砲手を多数輩出しました。
昭和57年国際捕鯨委員会において「商業捕鯨モラトリアム」が決議され、昭和63年3月31日でやむなく商業捕鯨を中断することになりましたが、「捕鯨技術」「伝統」「鯨文化」「鯨食文化」を守るため、今もなお捕鯨存続運動を続けています。
勢子舟(鯨博物館の展示)
住民に身近な行政の権限を地方自治体に移す地方分権の推進や国と地方自治体の財政力強化を目的に、平成11年度から平成16年度にかけ、旧合併特例法などにより手厚い優遇措置を講じて市町村合併が進められました。
当町においても例外ではなく、隣接する町との合併について、賛成、反対のそれぞれの立場から厳しい議論が交わされました。その後要綱を定め投票による住民アンケート調査が行われた結果、投票総数2,397票、合併賛成票938票、反対票1,295票、解らない129票、無効が35票となりました。
合併推進を標榜する候補者と単独行政としての町づくりの方針を掲げ立候補した私との町長選挙となりましたが、私が多くの町民の皆さんのご理解ご支援を頂き、平成16年8月8日太地町長に就任しました。
町長になるまで長く町議会議員として政治行政分野に携わっていましたが、改めて「住民の皆さんの目線に立った行政」を基本姿勢として、1期4年しかないという思いのもと全力で取り組みました。先輩首長さんから、「じっくり構えて、まず1期目は支持基盤づくりだ」とアドバイスされたこともありましたが、あくまで任期は4年間であり4年間誠心誠意町づくりに取り組み、それでもって住民の皆さんが支持してくれなければ落選してもいい、住民の皆さんに4年間の結果に対して判断してもらえればいい、そう思っていました。だから自分にとって4年間という時間との戦いでもありました。また、役場という組織が役場職員のためのものであってはならない。住民のための役場でなければならないとも考えていました。
当時、地方分権を視野に国と地方の税財政のあり方、補助金や地方交付税の見直し「三位一体の改革」がさかんに議論されていました。当町のように小規模な地方自治体にとっては、とりわけ地方交付税の制度のあり方や交付額が、今後どのようになるのか大変気になるところですが、地方交付税が仮に減額されてもその財源に似合った町づくりをしようと、歳入の確保はもちろんのことですが歳出の削減を行うことにしました。
まず、町長就任式当日、職員を前に開口一番「あなた方は町内の平均所得がいくらか知っているのか」と問いかけ、高い給料を必要とするのであれば退職して、給料の高いところに就職してくださいと話しました。しがらみがなかったので言えたと思いますが、職員の意識改革により、その後、住民のため必死に働く姿を見たとき、言いすぎたと思って少し反省しています。
職員に言った手前、まず、自らの給与の削減に着手しました。具体的には給料の大幅なカットと期末手当の廃止です。これは単なるパフォーマンスではなく、削減を行う姿勢としての意気込みを示したものです。町議会議員の期末手当も議員の中から廃止の提案があり廃止になりました。また、教育長の給料も退職した職員を任命し、月額20万円に大幅なカットを行うと共に期末手当を廃止しました。また、職員の給与についても給与制度改正のとき、減給保障をなくし、実質的なカットを行いました。直接苦言は聞いていませんが、職員の奥さん方にかなりの恨みをかっているものと思います。私の選挙のときには私に投票してくれないだろうと心の中ではそう思っています。
このように行財政改革を行う場合、それぞれ痛みを伴うもので、しがらみや再当選のことを考えては大胆にできない。だから「私が法律」という思いで1期4年しか任期がないという気持ちで取り組んできました。それで住民に信を問えばよいとずっと思っていましたし、今でもそう思っています。
また、私は「役損」ということを提案し実行しています。「役得」の反対で、自分自身はもちろんですが町幹部職員に対しても徹底しています。職務上会食や懇親会に出席するときは、自分が飲食した費用を自分が負担するというものです。これは役職に就くと「得」をしてはならない、公金の意味や趣旨を自覚してもらい、公金の支出を厳正にして住民に疑惑や不信感を抱かせないことを主眼においたものです。来客や会食の機会が多い幹部職員から「町長、自分の小遣いがなくなったので、小遣いを下さい」とか「会食はお茶漬クラスにしてください」と冗談とも本気とも取れる話を聞くにつけ、一面では苦労をかけているのかなと思うことがあります。いずれにしても自ら襟を正し、公正公明にしないことには住民の方の理解と協力を得ることができないと思っています。
古式捕鯨絵巻(座頭網掛け)
捕鯨船資料館
当町の主産業は、どちらかと言えば小規模な漁業者による水産漁業と町立くじらの博物館、水族館、捕鯨船資料館、国民宿舎白鯨(はくげい)などを中心とした「くじら浜公園」からなる観光産業です。
財政面では、企業会計を除く平成19年度の決算ベースで一般会計と6特別会計の決算合計額は、歳入で37億円、歳出で36億円の財政規模です。行政面積が狭いため、ある意味財政規模が小さくても行政効率がよいと言えます。
町づくり事業の柱の1つとして「鯨の町づくり」事業があります。前述したとおり古くより鯨・捕鯨と深く関わり、その歴史的な伝統があります。平地も少ない、農地も少ないこの太地を先人達の知恵により海へ生活の糧を求め、命をかけときには命を落としながら幾多の困難を乗り越え営々と築いてきた先人達に感謝し、伝統を今地域産業として引き継ぐと共にさらに後世に伝えて行くためにも、この固有の財産を活用して町づくりを進めています。
その1つとして鯨食文化の普及に努めています。団塊の世代の方は、鯨の竜田揚げを食した経験があると思いますが、現在の子供達は牛肉、豚肉や鶏肉は食べても鯨肉はほとんど食したことがないと思います。低脂肪高カロリーの鯨肉は、老化を防ぐ物質を含んでおりヘルシーな食べ物と言われています。関係機関の協力を頂きながら、南極海の調査捕鯨で捕獲されたミンク鯨の肉を学校給食に提供し、鯨食文化の普及と継承を図っています。
この他にも「太地浦くじら祭」「ふるさと祭」など毎年開催し、鯨にまつわる民芸の披露、鯨肉の販売、鯨肉を使った「はりはり鍋」の振舞い、鯨踊り、鯨太鼓、古式捕鯨の再現など数多くの催しを行っています。また、夏場には「鯨と泳げる海水浴場」も開設し、多くの人から好評を得ています。過去・現在・未来を通して、鯨と関わり続けたいと思っています。
高齢者の方、障害者の方、子供達が健康で安心して暮らせる町づくりにも取り組んでいます。私は社会的に弱い立場にある人達を社会の陽のあたる処で、光を当てるのが政治の役目であると思っています。
当町で、65歳以上の方は1,308人、障害者の方が190人、一人暮らしの高齢者の方が291人おり高齢化率は35.9パーセントで高齢化が進んでいます。町長に就任してから地域包括支援センターが立ち上がるまで、職員2人が1組となり1人暮らしの高齢者の自宅訪問を始めました。あくまでも本人の希望ですが、毎日訪問、1週間に1度の訪問、1か月に1度の訪問の方を地域ごとに手分けをして、勤務時間中ですが訪問してもらい、安否の確認、話し相手の役やちょっとした用事をしておりました。
また、社会福祉協議会を中核に漁業協同組合、農業協同組合、警察、消防や商店の協力を得て、地域ネットワークを構築し、一例ですが高齢者の方の少量の買い物でも電話での注文で配達して届けることを可能にし、24時間緊急な通報の受信の対応もしています。
今後、1人暮らしの高齢者世帯の増加が予測されます。この人達が自宅に引きこもることのないよう、乱暴な言い方をすれば自宅から引っ張り出したい。自宅から出ることにより環境を変えると、肉体的能力や精神的能力の低下を防ぐことになり、健康が維持できると考えています。
1日中家のなかにこもり、一言の会話もなく1人テレビに向かっている姿は寂しい限りです。このような事態を解消するため、町の要所要所に木陰つくりの植樹を行い、その下に紀州材を使用して木製のベンチを置き、お互い気軽に世間話しをしたり、情報の交換ができる交流の場として、また、買い物などの用事の途中で気楽に休息・休憩できる憩いの空間としての環境整備に取り組んでいます。
また、民間の路線バス撤退後、交通手段をもたない人達のために直営による町内100円均一低床循環バスの運行も行っています。通院、通所、買い物など多くの人に利用されており、朝7時より夜7時過ぎまで連続して運行しています。近隣市町村が広域でこのようなバスの運行ネットワークを作れば、交通手段をもたない人々の生活行動範囲がさらに広くなるのになあと思っています。
統計調査によると日本人の平均寿命が年々伸びていますが、その平均寿命年齢の数字だけでは見えない部分があります。健康で長生きし自分の身の回りのことが自分でできる。これ程幸せなことはないと思うし、それを強く望んでいます。平成16年当時、県知事さんにそんな思いをたとえて「80歳になっても恋愛のできる町づくり」を目指していますと話したら、「おい、ちょっと気持ちが悪いなぁ」と笑われたことがありましたが、住民自らが健康でありたいと願い、そう思う町にしたいと思っています。
くじらの料理
鯨踊り
くじらの民芸品
平成20年8月7日に私の町長としての任期が満了しましたが、無投票当選により再び町長に選ばれました。心新たに気を引き締め直して町づくりに取り組みたいと考えています。
景気の悪化が続くなか、市町村合併、地方分権、道州制、三位一体の改革など数多くの課題が山積しており、大変な時期を迎えしかも先行きが非常に不透明な状況ですが、「ピンチ」のときこそ必死になるのでいい知恵が湧いてくる「チャンス」だと信じています。
悲観論とは決別し、前へ前へと進み、住民が安全、安心して暮らせる町づくりを続けたいと思います。