ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > 町村の取り組み > 滋賀県湖北町/歴史から学ぶひとづくり・まちづくり地域文化が培う未来の自治~

滋賀県湖北町/歴史から学ぶひとづくり・まちづくり地域文化が培う未来の自治~

印刷用ページを表示する 掲載日:2008年12月15日
滋賀県湖北町の写真

滋賀県湖北町

2662号(2008年12月15日)  町長 南部 厚志


はじめに

10月になると、遠くシベリア等から、コハクチョウやオオヒシクイなど多くの水鳥が琵琶湖に羽を休めにやってきます。琵琶湖に沈む夕日と、白鳥など水鳥のコラボレーションが、見る人の心を癒してくれます。

滋賀県湖北町は、琵琶湖の北部に位置する人口約9,300人、総面積29.08平方kmの小さな町です。総面積の約43%が農地で、土地利用型農業を中心に発展してきました。西は琵琶湖に面しており、遠浅な湖岸は「びわこ水鳥公園」と名付けられたとおり、水鳥の楽園です。琵琶湖にやってくる水鳥の約60%が湖北一帯で冬を越します。また、本州でオオワシを見ることが出来る南限の場所として知られています。 東は戦国武将「浅井長政」の居城であり、全国屈指の山城として知られる「小谷城趾」 が、戦国乱世の歴史を伝えています。浅井長政とお市の方の3人の娘は、豊臣秀吉の側室となった茶々、京極高次の正室となった初、徳川秀忠の正室となり、三代将軍家光、後水尾天皇中宮和子(まさこ)を産んだ小督(おごう)、それぞれ戦国の世で数奇な人生を歩んだ事で知られています。

町の鳥「コハクチョウ」の写真
町の鳥「コハクチョウ」

湖北町の伝統文化

湖北町には多くの文化的遺産が残されており、文化行事が守られています。1月から3月にかけて、湖北地方では「おこない」と呼ばれる神事が村ごとに行なわれます。起源は東大寺の修二会に準じたお正月の法要とされ、雪深い湖北地方の村の年頭行事として村人たちの結びつきを強め、五穀豊穣を祈る祭りとなっていったといわれています。おこないの形式は村により少しずつ違いますが、大きな鏡餅を搗き、「まいだま」といわれる餅の花を作ります。鏡餅は、先祖の御霊を表しており、鏡割りをして村人に配られ、食することで1年の幸福を願います。「まいだま」は、木の枝に餅をつけて稲穂をかたどり、豊作を祈願するまじないと考えられています。

浅井長政像の写真
浅井長政像(小谷城趾保勝会所蔵)

その他にも多くの伝統文化が守り伝えられていますが、中でも速水伊豆神社の八朔大祭(はっさくだいさい)がその代表と言えます。 八朔大祭は、伊豆神社において、毎年9月1日に行われる祭りで、五穀豊穣を祈願し、秋の収穫期を前に氏神様に参拝し、農民たちを戒め心積りを促す意味があるとされています。神社境内では、神事が行われるほか、露店が立ち並び、子ども相撲や子どもみこしが奉納されます。 特に、「青物神輿(あおものみこし)」や氏子から選ばれた青年が、鎧を身に付け、 背中に母衣(ほろ)(長さ3メートルの竹を24に割り、2個ずつ紅提灯をつけたのもの)を背負い、、半円を描きながら舞い、字内を練り歩く「幡母衣(ばんばら)」は、貴重な文化財となっています。

祭りで変わるコミュニティ

八朔大祭の行われる「速水」は、万葉集の中の一首に「なにごとも床しければや道遠み速水の里にいそぎきつらむ」とあるように古い地名で、上古、「波美(はみ)族」と呼ばれる豪族が支配していました。波美が「速見」さらに「速水」になったと言われています。「速見」が「速水」になった理由は定かではありませんが、真宗大谷派楽入寺に伝わる四百年前の文書に、この「速水」の地名が残っています。昔、この地区は北国街道沿いの宿場町として栄え、宿屋、商家が軒を並べていたといわれ、今も町の中心部となっています。

町の中心部「速水」には、近年多くの住宅団地が造成され、町一番の人口増加地域です。急激な人口の増加は、集落の運営に様々な課題を生んでいました。従来の顔の見えるコミュニティ ではなく、住民の匿名性が高まり、住民同士の交わりが希薄になる「農村部の都市化」が進みつつありました。

そんな課題が、祭りの中で解決されていきます。八朔大祭には「青物神輿」「幡母衣(ばんばら)」と言う2つの大きな伝統があります。「青物神輿」は、その年の五穀豊穣を祈願して、郷内より収穫した五穀、野菜、果物、乾物、草花等約80種を使って作り上げた神輿です。 神輿の鳳凰は、カボチャ・ススキ・鶏頭花、垂木はサトイモのズイキ、升形は高野豆腐などを使い、野菜・花・麩などで美しく飾られます。神輿の四面の造り物が呼び物で、童話や物語・歴史上の一場面を題材に取り上げ、ろうで作られた人形は火に触れても溶けないことが秘伝で、今も引き継がれています。 正面柱の昇り龍、下り龍はシャガの根やカンピョウの種などが使われ精巧につくられていますが、今にも荒々しく舞い上がるように見えます。。本物の野菜などを使いますので、2月の総会で青物神輿の奉納が決まると、保存会を中心に作付け担当が決まります。それぞれの作物は大きさなども決まっており、作付けは重要な役目です。8月お盆が過ぎると神輿づくりにかかります。 保存会や老人会のみなさんが中心に進めていきますが、各所に住民のみなさんの参加を求めます。10日もすると神輿が出来てきます。そのころになると、一足先に神輿を見ようと多くの人が集まってきます。地域住民の共同作業で芸術品が生まれてきます。

48個の提灯を身につけた幡母衣武者の写真
48個の提灯を身につけた幡母衣武者

担ぎ手は、集落の若者です。集落内約2km程担ぎ、伊豆神社に奉納します。神輿の美しさと若者の勇ましさに沿道からは多くの声援が飛びます。若者たちは、賑々しく神輿を担ぎ、しっかりと神社に納めることで一つになります。地域ぐるみで祭りに参加することで、地域が一つになった瞬間です。

速水の住民が祭りに熱い情熱を向けるもう一つが、幡母衣(ばんばら)武者行列です。「仲哀天皇」が熊襲親征(くまそしんせい)の時、伊豆神社に戦勝を祈願したところ勝利を得たため、当社に戦勝報告をされたことがはじまりと伝えられています。

幻想的な雰囲気の幡母衣(ばんばら)武者行列の様子の写真
幻想的な雰囲気の幡母衣武者行列

幡母衣武者行列は、祭りの夜、若者が鎧を身にまとい背に24本に割った竹に48個の提灯をつけ、幡を立てた母衣(ほろ)を背負い、字内を練り歩いて神社に参拝する行事です。武者が左右に体を振るたびに、母衣に吊され48個の提灯の灯が揺れ、幻想的な雰囲気を醸し出します。母衣武者とは、矢を防ぐ母衣をつけた武者のことです。母衣の起源は、平安時代末期、背に五幅程の布をなびかせ後方からの矢を防いだものです。

幡母衣武者行列は、大正時代まで毎年行われていました。昭和に入って、神社の式年や国や地方の慶祝行事に行われていましたが、昭和11年を最後に途絶え、人々の記憶から遠ざかりつつありました。昭和63年9月1日、青物母衣保存会により約半世紀ぶりに復活しました。その後も期待の声は途絶えることがなく、今年20年ぶりに復活させることが出来ました。

暗闇に赤い提灯の光が揺れる幻想的な光景は感動的で、老人たちの中には、「生きているうちに(ばんばらを)見られた」と言って涙を浮かべる人もいました。今年幡母衣武者行列を奉納出来たことから、次回への期待が高まります。前々回から50年ぶりに復活させることが出来た。前回から20年ぶりに復活させることが出来た。この歴史の重さを集落の人たちが感じています。「先人の思いに負けないように、次回までみんなで守っていこう」といった機運が出てきました。地域文化が、人と人とをつなげる原動力になっています。

分権時代 自治への挑戦

浅井長政の父、久政は、地域の水争いを「餅ノ井落し」という行事で納めたと言われています。「餅ノ井」組の村と「大井」組の村との間で行われ、近年まで伝わっていました。

この行事では、「大井」組の村人と「餅ノ井」組の村人が、まず「餅ノ井堰」に集まります。「大井」組が堰の中央を幅三間(5.4m)で切り落とし、水を下流に流します。切り落とすときは道具を使わず手のみで行われました。「餅ノ井」組はこの作業を水をかけて妨害し、「大井」組の村人も水をかけて応戦しました。堰が切り落とされると、「大井」組の村人は帰ります。「餅ノ井」組の村人は「大井」組の村人の姿が見えなくなるとすぐに堰を修理しました。修理は約3時間かかりました。切り落とした時、流れた水は「大井」組の村人の水田を潤しました。この行事は一歩間違えば大きな争いになることも考えられます。戦国時代であれば、合戦になりかねない緊迫した行事でした。「餅ノ井落し」は、ぎりぎりの妥協点であったと考えられます。

浅井長政も、その強さの秘密は、地元・北近江の人々との結束力にあった と言われています。権力者による支配を拒み、村人たちが自ら治める「惣村」と呼ばれる村々が数多く存在したのが北近江であったと言われています。住民自治が戦国時代から出来上がっていたと言えます。長政は、村同士の争いの仲裁や村々にとって大切な祭の保護を通じて民衆の気持ちをくみ取り、北近江をまとめていきました。

浅井久政・長政の時代から培われてきた自治の意識は、現代社会の中で形こそ変わりましたが、受け継がれています。湖北町はこの血を活かす自治を目指して、「歴史から学ぶ、ひとづくり・まちづくり」を提唱しています。

終わりに

従来型の行政運営ではなく、地域経営型の自治体経営が求められる時代となりました。そこで、未来型の住民自治を実現しようと、ミニ分権への取り組みを始めています。昔の集落とは相互扶助の精神がコミュニティを支えていました。この精神を復活させようと、地域文化と防災を切り口に町中の大改革をスタートさせています。

また、人口1万人に満たない小さな町が、行政事務をアウトソーシングするには、受け皿から整備する必要があります。そこで、町内の有志が私財を提供し、「株式会社まちづくり湖北」が昨年6月にスタートしました。第3セクターや公営企業によらず、民間の自由な経営手法によって、町の課題を解決していくことを目的とした会社です。早速、町の業務を請負い、財政負担の軽減や、職員数の削減に効果が現れており、今後に期待が膨らみます。会社を支えるのは、現役を引退された先輩の皆様です。職住近接で再雇用の受け皿になっています。

世界的な経済の冷え込みの中で、地域経営も厳しさを増しています。国の改革も同じかもしれませんが、地方分権改革は公務員改革が最優先です。公務員それぞれが、生活者に視点を置き、時代感覚を持った改革に取り組むことが大切です。

生活者起点の大改革は、町民の皆さんと共にスタートを切りました。