2645号(2008年7月7日)
経済課 攻めの農業アドバイザー
川村武司
田子町は青森県の最南端に位置し、秋田県、岩手県の両県に接し県境をなす町である。東西に19.6㎞、南北に17㎞の扇形で総面積242.1平方㎞の広さを有し、約80%を山林が占める。3県の接点に連なる山岳からの湧水が4本の河川となり、それらが合流する地点で市街地を形成している。「田子」と書いて「たっこ」とよむ由来は、アイヌの言葉で「小高い丘」との説がある。人口は、約7,200人。町の主産業である農業の就業者は約38%で、葉たばこ、畜産、にんにくが主流を占めている。
また、約2,000ヘクタールの広大な放牧地には黒毛和牛が悠々と群れを成し、幻の牛肉との評価も高く絶品である。放牧地から眺める星空は、環境庁(当時)の「日本一きれいに見える町」に認定された。水田、あぜ道では、蛍が飛び交い夏の夜空を幻想的に彩っている。
ニンニク日本一の看板
国道104号を田子町に進むと、「にんにくの首都」、「にんにく日本一」、「たっこにんにくの看板が目に入るはず。ニンニクのオブジェも圧巻だ。町に入ると、にんにくの街灯、にんにくの欄干、ガーリックセンター、にんにくケーブルテレビ、にんにくポストなど、町挙げてのこだわりと誇りがある。 「たっこにんにく」は、2006年、東北初の地域ブランドとして特許庁から認定を受けた。幾多の困難を乗り越え、育ててきた先人の英知と関係機関のご指導の賜である。
「田子のニンニクは、よそと違う」と、市場関係者は言う。ニンニクは小ぶりだがずっしり重い。そこには「たっこにんにく」夢と感動の物語がある。
かつて、出稼ぎからの脱却を目指して、青年たちが「にんにく」を導入したのは約46年前だ。火山灰土壌という土地条件の悪さを克服するため、彼らは古くから盛んな畜産の堆肥を活用。これによって地力を高め、健康な土壌にニンニクが育つ術が受け継がれてきた。この原動力になったのが、農協の生産活動と教育活動の理念に基づいた、「にんにく生産部会」の発足である。
にんにくぽすと
生産部会では、にんにくの品種を福地系ホワイト種に絞ることにした。「品質」を優先した決断であった。部会員に種子をあっせんし、品種の選抜を徹底して繰り返した。少しでも欠点が見えると容赦なく種子用から外すという、この徹底した優良系統の選抜は、生産部会ならではの活動であった。当時、携わった1人として、その厳しさは想像を絶した。
その品質を武器に、にんにく産地の戦国時代を勝ち抜いて来た。県内では数量・単価ともに群を抜き、北海道のT町を抜いて日本一の名乗りを上げたのは昭和50年である。品質を重視し、高品質の福地ホワイト六片種を育て、田子にんにくは全国の市場に切り込んでいった。市場ではその品質が評価され、田子の選果選別基準がのちに県経済連(現JA全農)の選果選別基準づくりに活かされ、青森県にんにく王国の原動力になったと自負している。
品質優先の戦略で育てた「福地ホワイト六片種」は、田子が育ての親と言っても過言ではないだろう。
にんにく選果場では、1個1個規格・品質の検査を行う。規格に適合しない物は、やり直してもらうことを基本とした。欠点があればA品からB品に格下げすればそれで良いことではあるが、あえて返品し、やり直しであるから、当然、生産者からの反発があった。 中には、トラック1台分全部返品・やり直しの生産者もいた。つい数年前まで、にんにくは「個選」でりんごの片隅に積まれて出荷されていた。それを一躍、日本一の東京青果(株)に出荷した。生産者1人1人の意識改革がでなければ、同じ過ちを繰り返すことになり、産地にはなれない。選果選別・出荷規格指導には庭先から庭先まで、時には座敷に上がり込んで1個1個手にしてしっかり覚えてもらう指導が行われた。
にんにくとべこまつり
田子のにんにくはどの箱を開けても、みんな同じ、悪い物が入っていると指摘すれば直ぐ直す、これに比べて他産地は時間がかかる、と市場は評価する。信用を築くことは長い時間を要する。しかし、信用を失うのは一瞬だ!この礎を築き上げた意識改革が、今日の財産となっている。
この波及効果が他の野菜にも及んだ。昭和50年夏秋キュウリ、昭和52夏秋トマトは、日本一の東京青果(株)でデビューとともにトップ価格がついた。無名産地がなぜ?「京浜市場の七不思議」と噂され、日本一のたっこニンニクを育てた産地ならと信用された。
消費者の信用と信頼を裏切らない。これが、「産地田子」を築いた原点であり、今もこの土壌は受け継がれている。「小さい産地ですが田子の自慢は生産者です!」市場によく言ってきた言葉である。
「たっこにんにく」は、流通の維新とも言える改革を成し遂げた。それは、産地パックの導入と売り先・売り場の確保と値決め価格が実現できたことである。
農産物は、一般的に市場に出荷し、その日の相場によって価格が決まる。一般的には生産者が自由に価格を決められないのだ。消費者価格と生産者価格との差がありすぎると産地は嘆く。全国の産地では、市場に対して売り場所を確保してほしい、と必死だ。
「たっこにんにく」は、売り先を確保し年間の価格も決まっている。産地でパッケージするメリットと雇用効果も出た。この流通改革が実現し、市場では、全国の産地で自ら価格決定できるところは田子だけではないか、と評価した。それまでは、市場に出荷し、そこから、パッケージ業者が間に入り、消費者(お店)に届けられる。ここに、生産者価格と消費者価格の大きな価格差が生じていたが、産地でパッケージされることにより価格転嫁ができる。また、すべて「たっこにんにく」のラベルで出荷されるので、消費者には安心・安全がお届けできることになる。
にんにく畑
この流通維新とも言うべき改革は、町が造った「にんにく専用CA冷蔵庫」の完成によって実現した。JAの戦略、町の支援によって、周年供給体制と年間値決め価格が実現したのだ。農産物流通としては革命的な仕組みだ。市場はこれを支持してくれた。町と農協の二人三脚で勝ち取ったこの改革によって、「たっこにんにくブランド」価値をさらに高めることが出来た。
町内のにんにく生産者である両親のもとへ、上京した娘から電話が来た。「お父さん、お母さんが話していた「明治屋」で田子のにんにく・とまとが売られているって間違いでない!そこのお店ってすっごい高級店だよ!」と言ってきたが本当ですかと訪ねるので、「ホントですよ!」と答えると、後日「娘が驚き、感動した」とのこと。田舎から上京して超高級店へ行ってみたら、両親の作ったにんにく・とまとが販売されている。このことが、子供達にどれほど誇りと自信になったのか。「にんにく」がもたらした大きな成果を物語るエピソードである。
にんにくは、子供達の目を海外に向けさせるきっかけにもなった。米国の主産地カリフォルニア州ギルロイ市との姉妹都市交流は、開始から20周年を迎え、今年は記念事業が目白押しだ。ひとつぶのにんにくが町の文化を醸成し海外への架け橋にもなったのである。
また、昭和60年、町は全国初のにんにくシンポジュウム」を開催。これを契機に、町とJAが一体となったビジョンづくりの土壌が出来た。町総合計画やJA農業振興計画づくりに際し、町とJAは一緒になって議論した。一般に行政とつながりを持たないJAが多い中、町の支援・相談機能を含めて、潮流の変化を見逃さない田子の強さとも言えよう。
たっこブランドができるまでの道のりは、決して平坦ではなかった。
最大の危機は約14年前にさかのぼる。未曾有の中国産輸入攻勢を受け、にんにく価格は大暴落。田子町にんにく生産農家は550戸から約200戸に半減した。生産者は悲痛な声を上げ、にんにく栽培を続けるか止めるか悩み、家族内でも意見が分かれた。
JAは町の支援を受け、新たな戦略を打ち出した。輸入品に勝てる高品質生産と下位等級品の付加価値づくりである。国の輸入急増緊急対策事業も導入し、足腰の強い産地づくりに取り組んだ。当時、日本一になって追われる立場になったばかり。他の産地も苦しいはず、今、ここで、団結して負けずに頑張ろう!と歯を食いしばった。
土づくり研修会
この危機を前にして、町とJAでは、にんにく畑、土壌・土層診断を実施した。JA、町、県が一体となって管内、一筆毎にマップを作成し、土層深く掘って根張りの状態から三相分布、ち密度まで広範囲に渡って取り組んだ。土層深く掘り起こす町の建設業の手も借りた。町は、建設業に呼びかけ土層を深く掘る作業を支援した。 深さ80㎝の土層を調査するのだから、掘る深さはそれ以上である。当初1年計画であった調査は、町に熱意があるとのことで2年間継続された。この調査は、県の指導奨励にも活かされている。
中国産輸入攻勢により産地存亡の時、さらに町は、にんにく産地復興支援を行った。先ず、町単独の増反奨励を実施した。土壌改良費支援、増反奨励助成、優良種子導入助成、転作田実証圃など生産者が意欲を持って栽培し増反できるよう後押しした。
たっこブランドの価値が高まるとともに、「たっこにんにく」使用の商品が多く出てきた。「たっこにんにく」の名前を利用した商いによって、一時クレームが農協に寄せられた。JA以外の取り扱い業者の品質に問題があった。他が真似できないよう商標の取得ができないかと考えたが、なす術はなかった。このままではブランド失墜が危惧され、危機感が強まった。
ここで、町が中心になって、JA、加工・流通業者、生産者による地域住民組織「たっこにんにくのブランドをもりあげる会」が発足し、「たっこにんにく」を守ろうと動いた。奇しくも商標法が改正、JAが商標管理を行うこととなった。JAに地域団体商標管理運営委員会、、「たっこにんにく」ブランド審議会が発足し、「たっこにんにくアドバイザリー会議」が住民運動組織として、「もりあげる会」の活動を引き継いだ。
昨年、町と農協、商工会が地域資源&全国展開プロジェクトに取り組んだ。地域資源「たっこにんにく」を活かし、地域で加工し、地域で流通し雇用を活性化させることを狙いに、新商品開発と総合戦略の構築を目指す取り組みだ。これによって、新たな展開を目指す。
町長によるトップセールス
期待される新たな商品には、黒にんにく、琥珀(こはく)にんにく、たれ、にんにく焼酎、なんばん味噌(みそ)、チョコレート、味噌漬け肉などがある。昨年、町長のトップセールスが大阪・東京で行われた。町、JA、商工会の3団体が団結した取り組みは市場で評価された。
一方、にんにく農家の所得確保に向けた対応では、圃場ごとのカルテ作成、品質保証システム、健康な土づくり実証圃の設置、労働力支援システムづくりを目指している。
さらに、産地としての将来を見据えた取り組みとして、独自品種「たっこにんにくホワイト種」の育成がある。昨年始まった「たっこにんにく産地力強化戦略」では、生産額21億円、販売額15億円、地域への経済効果35億円を目標に掲げた。
生産・加工・流通・観光・雇用―を網羅し、農・商・工連携で地域の総合力を高める。これが戦略の最終目標だ。そのためには、国から認定を受けた「たっこにんにく」の地域ブランドを、加工品を含む地場産品にどう活用するのかの検討も必要だろう。権利化したことで守りの体制・体質に入ることがないよう、ブランドを活かすことが急務である。対応を誤って、せっかくの地域ブランドが失墜することのないよう、慎重に行動する必要がある。
先人から受け継いだ「たっこにんにく」という貴重な財産。これを次代に引き継ぐ使命が課せられている。