2629号(2008年2月11日)
産業建設課長・自立再生担当
五十嵐政人
昭和49年、三島町は「ふるさと運動」の取り組みを開始します。きっかけは、このままではムラが滅びてしまうという危機感からでした。
その頃、東京では光化学スモッグが話題となっており、宮田輝氏が司会をつとめる「ふるさとの歌まつり」が人気番組でした。仕事を求めて都会に出て行く人がいる傍ら、都会ではふるさとがないという人も増えていたのです。
山ブドウ細工
故郷喪失感は、国をあげた人口大移動がきっかけといわれますが、唱歌に謡われたように明治時代から始まっています。本町の属する只見川流域は、戦前から、水力発電地帯として国家的な役割を果たしてきました。
現住人口2,212人。社会変動の波に揉まれながら中山間地域、特別豪雪地帯、少子高齢化、過疎化の農山村が次代に何を残し伝えるのか、と模索を続けました。特に、平成の大合併が終息した感がある今日、最大の課題は地域経営の立て直しと考えています。
本町も誘致企業の撤退や建設業の不振、財政事情の厳しさから町村合併に取り組みました。しかし、残念なことに稔らず、現在は町内プロジェクトチームによる自立計画を策定中です。
第3次となる振興計画のシンボル事業は、「エコミュージアム構想」で町全体を生活博物館にする計画です。
平成18年度から、若手職員が中心になりプロジェクトチームを結成しました。この方式は町民・職員ともに公募方式にしました。何故かといえば、構想を実現するためには通常の職務体制だけでは解決できない様々な課題があり、何よりも「やる気」が必要条件と思われたからでした。
冬の食彩ミュージアム
1年目は試行錯誤的な議論を繰り返しながらも、福島県の支援を得て地域資源再発見をテーマに集落に出向くワークショップや都市農村交流新展開の講演会を実施しました。2年目は奥会津案内人講座、箱膳食育イベントを企画しましたが、併せてエコ・プロの活動支援のためにと東北電力㈱が「まちづくり元気塾」で応援してくれました。
この塾によってエコ・プロの活動目標は、「前向きにこの町で生きていく人を育てる」ことだと確認されたのです。そして、塾の最後(3回目)は「冬の食彩ミュージアム」と題した取り組みでした。子育て真っ最中の女性をはじめ幅広い参加者たちが、「食」の重要性と食による交流方法について分かち合いました。「知育・徳育・体育がなければ人は育たない」といわれますが、女性パワーにより町民自らが結びつきを深める民間協働がスタートした瞬間でした。
また、かつて町の中心街やいたるところで見られた桐の花が薫る景観を「桐源郷」と呼び、エコミュージアムの象徴として位置付けることにしました。この他にも温泉、山菜、茸、蕎麦、会津地鶏などの特産品振興にも力を注いでいるところです。
只見川流域のブナ原生林は多様な動植物が植生、棲息し、その規模は世界遺産級といわれております。また、この流域は地味に恵まれていたことから、桐の植栽が盛んに行われてきました。
本町にも、天恵木に相応しい「宮下桐」と名付けられた会津桐が伝承されています。しかし、永年の栽培がもたらす忌地現象、輸入材による価格の暴落などによって、植栽熱が冷めかけているのが現状です。
桐の花
これらの自然的、人的、経済的要因が複雑に絡み合い悪循環となって地域経済を停滞させ、さらには誇りをも失ってしまうのではと恐れました。そこで、会津桐の伝統を失くしてはならないとの信念で、町は植栽の応援や栽培管理指導、第三セクターによる桐タンスの加工場を経営してきました。苗木生産者や農家の方々は、「優良な桐苗はカノ焼き(焼畑)に実生が飛来する」との故事を思い起こし、「カノヤキ組」を結成し活動を開始しました。
また、撤退した工場跡地で桐を不燃化し木製ドア類を製造する会社が進出し、これまでの工芸的利用に新しい建材の分野が加わりました。さらに、この企業の社員と地元若手有志が、「桐の応援団」を結成し、NPO法人を取得しました。この団体は町外の民間資本により植栽を始めましたが、これもCO2削減など桐の持つ公益性に着目したのが発端です。
順風が吹いてきましたが、それでも何かが足りない。会津桐を再生させ、桐源郷を創るために何が必要かと考えました。
平成19年、「都市再生モデル調査」を紹介していただきました。早速、内閣府に応募したところ採択となり、桐は特用林産なので、担当は林野庁にご指導を受けております。心掛けたのは、本町の会津桐の実態を把握することでした。申請書作成時に、関係者に桐の栽培本数を尋ねても、誰もわからないといった状況でした。そのため、先ず桐の毎木調査と土壌分析、栽培者と桐製品の使用者アンケート調査、ユニバーサルデザインの構築に主眼を置きました。 そして、得られた結果を生産者や関係者に還元し、振興プランに結びつけることにしたのです。
現在も調査中ですが、心配していたことが現実となりました。桐は立木で一本毎に売買される慣わしなので、寸法を測られるときはその桐の最後、との意識から調査が拒否されるケースも起きました。
植樹祭ポスター
今後の課題は、得られた結果を基に市場の開設などで公共性を高めること。また、会津全域での広域連携を盛り上げていくことだと考えております。何故、本町が会津桐にこだわるのか。それは永年、生活の一部として当たり前のように慣れ親しんできたこともありますが、『桐栽培総論』が紹介する次の故事からも影響を受けています。
「五七の桐の紋は皇室や日本国を代表する御紋であり、古来、中国で想像上の瑞鳥とされた鳳凰は、桐の樹に宿り、竹の実を食し、徳高き聖天子の出現を待ってこの世に現れる」
また、桐の特性は①調湿性がある②軽い③強い④炎を上げても燃えにくい⑤ 断熱性が高く音響性に優れている⑥加工しやすい⑦材質が優美⑧二酸化炭素の吸収力が高いことにあり、世界中に誇れる材質と花なのです。
平成15年、本庁の山ブドウ、ヒロロ、マタタビ細工が国の伝統的工芸品として指定を受けました。伝統工芸士も5人誕生し、84歳の新人も活躍中で叙勲の栄誉に輝く方も出てきました。この分野も30年来の活動成果なのですが、元々は、冬の手仕事の農具や生活用具の伝統を護り現代にもマッチするようアレンジしたものです。
編み組の歴史は古く、ルーツは縄文時代にあり、町内で発掘された2500年前に遡る荒屋敷遺跡によって明らかになりました。現在は年間を通して製作されており、人気がある作り手の作品は使い手が待ち望んでいるほどです。
本町の年中行事のうち、37件が福島県重要無形文化財に指定されています。
四季折々に営まれる祭りですが、規模の大きさと実施地区の多さでは「サイの神」が群を抜いています。サイは歳や災、賽が当てられるという諸説がありますが、どんと焼き、左義長と同じ行事内容のものです。
いつからはじめられたかはわかっていませんが、享和2年(1800年)には禁止の古文書があることから、その頃、既に行われていたことは想像できます。
サイの神
小正月の1月15日、雪の中から伐り出した御神木に藁を巻き、立てて燃やす神送りの行事ともいわれますが、村人はこぞって厄を払い豊作と安寧を願います。
この度、本町のサイの神が文化審議会で国の重要無形民俗文化財に答申されました。嬉しいニュースです。
この他にも「ひな流し(3月上旬)」、「虫送り(6,7月上旬)などの諸行事がありますが、いずれも特定の神官や僧侶が関与するものではなく、その時々に町民が主役となり素朴に祈る民間信仰の世界といえます。
ふるさと運動はよく行政主導型と評価されてきました。目立った史跡や神社仏閣などなかった本町は、資源を活かして技術を磨き、それを宝にしていく試みの連続でした。磨き方は、三島町を愛してくれる特別町民や名誉町民の方々で、陰に陽にサポートしていただいた協働の産物そのものです。
おかげさまで平成15年、毎日地方自治大賞受賞―「農家の玄関を工房に都会人と素朴に交流」。平成19年、総務大臣表彰―「過疎山村振興事例―ふるさと運動から生まれたものづくり・人づくり・町づくり」。文部科学大臣表彰―「三島小学校・よい歯の学校表彰で全国初の2度目の日本一」。毎日カップ「中学校体力づくりコンテスト、三島中学校全国優良校」。福島県声楽アンサンブルコンテスト(男声合唱)―「三島中学校金賞受賞」。がんばる地方応援プログラム―地方交付税の増額など成果が顕れてきました。
これからも、日本のふるさとに相応しい地域を創っていきたいと願っております。