2584号(2007年1月8日付号掲載)
美瑛町長 浜田 哲
美瑛町、「びえいちょう」と読みます。最近やっと正しく呼んでいただけるようになりました。北海道のほぼ中央に位置する町です。
1894年(明治27年)の秋、人跡未踏の荒野に、最初の移住者がたどり着き、未開の原野に斧を振るったのが美瑛町の始まりです。
以来、農場開設が続き、1899年の鉄道開通を期に発展し、翌1900年、19世紀最後の年に分村独立したと記録されております。この時、アイヌ語でピイエと呼ばれていた地名に、美瑛(美しき玉の光との意)の漢字をあて、ようやく100年を超えたまだまだ新しい町です。
美瑛町の最初の転換期は、昭和20年代の戦後の緊急入植でした。国策として進められた御料地などが解放され、食糧の自給確保と国土の開発のために人口が飛躍的に増大し、ピーク時は2万2千人を数えましたが、これに続く経済政策のもと、農業者が都市労働者となって流出が続き、人口は半減してしまいました。
「もはや戦後ではない」と言われた高度成長期、人々の生活に「ゆとり」や「やすらぎ」を求める傾向が現出すると、美瑛町に第2の転換期が訪れました。
波打つ丘の風景
昭和62年、風景写真家「故前田真三氏」のギャラリー「拓真館」が開設、美瑛の風景が写真集で紹介されました。今まで耕作に難儀していた傾斜地農業は、波状丘陵地帯に広がる耕地が、縁取りをなす耕地防風林などの森林と相俟って「景色」として認知され、観光的動向が一気に高まりました。
それまでの美瑛町の観光は、十勝岳連峰の山岳景観と裾野に位置する「びえい白金温泉」に代表される温泉観光が主流で、年間入込数は40万人程度で推移していました。それが、短期間に100万人、ピーク時には140万人を数える状況となったことから、対応する社会資本整備が追いつかなくなりました。
また、農産物の輸送路の役割を果たしてきた道路には大型観光バスが流れ込み、その地形のために複雑を極める道路網には地理不案内なレンタカーが溢れました。このため、本来の地域の営農活動に支障が出たり、観光者とのトラブルが頻発し、一次は農業と観光が反発する時期もありました。
拓真館
こうした軋轢を緩和するため、町は遅ればせながらの対応を迫られました。見晴らしの良い場所への駐車場・トイレを併設した展望公園の整備、狭隘な道路の拡幅改修、これらに伴う案内板の設置、農業者の生産の場である圃場への立ち入り規制看板の設置などなど。
観光の対象が、特定の名所・旧跡といったスポットとは異なって、農業者が日々の営農を展開する広大な畑地帯であること、また、営農活動により成り立っている農作物の織り成す彩りが、その耕作される地形と相まって観光資源となったことで、起こる事象も実に多岐にわたりました。
こうした、美瑛町にとっては前代未聞の騒ぎのなか、徐々に潮目が現れました。リピーターと言われる観光者の中から移住を決行する人々が現れ、地域全体の雇用環境から、多くの方々がペンションやレストランなどの観光関連の仕事を始めたのです。
四季折々で表情を変える美瑛の丘①
これらの取組みが観光需要に対応する厚みを増すこととなりました。使用する食材を地域から調達する動きが生まれて農業者の直売所設置につながり、美瑛町の作物に対する需要が直に農業者に伝わる状況が生まれました。また、観光動向が農業に波及する効果が見え、農業と観光を連携させる手法の検討が始まり、「日本で最も美しい村」連合の設立の端緒となりました。
これらの動きと、農業者と消費者との対話や交流を通して、農作物は商品であるとの認識が生まれました。
四季折々で表情を変える美瑛の丘②
従来、大部分の農業者は生産者であり、消費者は農協などの流通経路を挟んで対岸に位置する人々との認識が主流であったと思います。観光の動向が、農業者の意識の中に商品づくりを担っているとの思考を生み出し、消費者のニーズに対応するための「地域ブランド」の必要性を認めることとなり、観光を支える農業・農村景観が、ブランドを作り上げる有用なツールとして認識されていきました。
地域ブランドに対する認識はできたものの、それを実際に構築するには多くの課題がありました。
同じ商品が並んでいたら、いち早く手にとって貰える商品、同じレベルの商品であれば少しでも高い価格で販売できる商品-当初目指した方向に基本的な間違いはないと考えていますが、今ひとつ確信が持てません。
何故?と考えるうち、新たな方向が見えてきました。
作物を原料として扱うだけでは限界があるということでした。これを足掛かりに、色々な取組みの中から改善が進み、徐々にではありますが地元の小麦をベースにする商品開発や、農産物に付加価値をつけた展開が進みつつあります。
試行錯誤を繰り返しつつ、新たな課題が見えてきました。それは情報発信力の不足でした。
この対応策を模索していたところ、フランスで展開されている「最も美しい村」運動に出会いました。
これは、1982年にフランスで始まった運動です。社会構造の変化に伴った若年層の都市部への流出や過疎の進行などに悩みをもつ小さな村々が、この年、それぞれの地域が育んできた歴史的建造物や文化に観光的付加価値をつけてPRしようと組織をつくります。そして、安らぎや潤いを求める都市住民に対して時間と場所を提供し、その交流を通して地域振興を図る取組みを開始。これに、環境や景観に対する配慮をポリシーとする企業が社会貢献の一環として組織運動に協賛、取組みのレベルアップやグレードを維持することをサポートします。こうして、「最も美しい村」を地域振興の新たな手法と考え、フランスの状況視察や日本における展開を模索することとなりました。
こうした経過をたどり、2005年10月に北海道美瑛町において設立総会を行い、「日本で最も美しい村」連合を設立しました。
「日本で最も美しい村」連合定期総会
加盟している村は、南から熊本県南小国町、徳島県上勝町、長野県大鹿村、岐阜県白川村、山形県大蔵村、北海道赤井川村、そして美瑛町の7つの村。それぞれが独自の資産をもつ素敵な村々です。
連合のロゴマーク
「日本で最も美しい村」連合は、従来の市町村連合とは違って、フランスの組織同様、企業や個人のサポーターの皆様に支えられています。組織自体もNPOの法人格を取得し、連合のロゴマークを商標登録することによって商業的な活動を展開し、活動に幅を持たせていきたいと考えています。
「日本で最も美しい村」連合を設立し1年を経過した2006年10月、九州は熊本、南小国町で定期総会を開催し、新たに宮崎県高原町、長野県木曽町開田高原の2つの村を加えました。今では企業22社、個人192人のサポートを受けるまでに成長し、今後も仲間づくりを進めていくこととしています。
「日本で最も美しい村」連合のロゴマークには、「日本には村々によって様々な美しい景観があります。そこには、人々の生活があって、厳しい自然との戦いと、年月をかけて作られてきた美しい景観が人々の暮らしと共に息づいています。人々の生活の営みと自然が融合したものが「美しい村」の景観である」という意味が込められています。
個々では届かない声も仲間と共に情報発信し、それぞれが持つ資・産の育成保全に努め、大きさや効率のみでは語れない新たな価値の発掘に努め、地域の総合力を高め、そのブランド化を図る。従来とは違った形での村づくりで、この先の紆余曲折も想定されますが、力を合わせて進めて行く決意を固めているところです。
奥に見えるのが塔のある小学校「美馬牛小学校」
最後に、「日本で最も美しい村」連合のステートメントをご紹介します。
近年、日本では市町村合併が進み、小さくても素晴らしい地域資源を持つ村の存続や美しい景観の保護などが難しくなっています。
私たちは、フランスの素朴な美しい村を厳選し紹介する「フランスで最も美しい村」活動に範をとり、失ったら二度と取り戻せない日本の農山村の景観・文化を守る活動をはじめました。名前を「日本で最も美しい村」連合と言います。
私たちは、小さくても輝くオンリーワンを持つ農山村が、自らの町や村に誇りを持って自立し、将来にわたって美しい地域であり続けるのをお手伝いします。
具体的には、「日本で最も美しい村」のシンボルマークを、日本のみならず世界的にも観光地や文化地域としての目印にするのが目標です。フランスでは既にガイドブックや地図に載るほど有名な活動に成長しています。
自然と人間の営みが長い年月をかけてつくりあげた小さな、本当に美しい日本は、いまならまだ各地に残されています。それらを慈しみ、楽しみ、そして、しっかりと未来に残すために。
自らの地域を愛する皆さんにご協力いただきながら、まずは7つの村からスタートしました。