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奈良県十津川村/世界遺産の村から「心身再生の郷(さと)」へ 身も心も癒すふるさとに磨きをかけて

印刷用ページを表示する 掲載日:2006年11月20日
玉置神社の大鳥居の写真

玉置神社の大鳥居

果無集落に建つ世界遺産の碑の写真

果無集落に建つ世界遺産の碑


奈良県十津川村

2580号(2006年11月20日)  全国町村会 広報部


町村の数が、全国に15,000以上もあった明治23年に、旧6村の合併により成立した奈良県十津川村。古くから「十津川郷」とよばれた地域がひとつになって、すでに100年以上が経過している。

広大な山々に囲まれて過疎・高齢化が進む現状、主産業である林業の衰退など、村をとりまく情況は、山間地にある多くの町村のそれと変わらない。しかし、そこへ湧き上がった平成の大合併の議論のなか、十津川村はなお自主自立の道を歩む決意をした。

「今も昔もここは秘境、でも時代はいつもここから変わる」と声を励まして、新しい村づくりに取り組む十津川村。長い歴史を経て独立の気風を培ってきた村の「今」を取材した。(全国町村会広報部)

風格ただよう山々

南紀白浜の空港から、一路北東方向へ車を走らせる。熊野本宮の大きな鳥居を右手に見て熊野川をさらにさかのぼると、はるか前方に雲を突くような天嶮が見えてきた。

奈良県十津川村。

1,000m級の大山岳地帯のただ中にあって、日本史の表舞台にもたびたび登場する村である。壬申の乱で大海人皇子(おおあまのみこ)(後の天武天皇)に加勢したと伝えられて以来、「十津川郷士」は源平の戦や南北朝の乱、幕末の動乱期にも活躍した。

村内に入り、細雨に濡れた山道を、熊野古道小辺路の石畳が残る果無峠(はてなしとうげ)へ向かう。世界遺産の碑が建つ果無集落から眼下を眺めると、深い霧をたたえた山々の峰が、長い歴史を重ねてきた土地の風格を感じさせる。

その昔、神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)すなわち後の神武天皇が、河内平野を平定すべく紀伊半島の南から熊野の山に分け入った。その時、八咫烏(やたがらす)の道案内で通ったのが十津川のあたり、といわれている。熊野三山の奥の院と称する玉置神社には、その神日本磐余彦尊が、祭神の一柱として祭られている。

夏祭りでの餅撒きの写真

夏祭りでの餅撒き

自治の息づく郷

十津川村の面積は、奈良県全体のおよそ5分の1にあたる672平方キロ。日本一大きな村である。紀伊半島のほぼ中央、奈良県吉野郡の奥にあり、全村を1,000m級の山々に囲まれる。平地はごくわずかで、村人はこの広大な山岳地帯の谷々に集落を形成して暮らしてきた。

司馬遼太郎は十津川村の自治について、一郷の大事は集落の代表者たちが寄りあつまって合議、決定してきたとして、実態は「十津川共和国」というべきものだったと分析している。村内には現在でも54の大字があり、それぞれに総代と呼ばれる代表者がいて、道普請や水普請、祭りなど集落内の役を運営している。

最も多い時期で15,000人を数えた村民の人口は、現在およそ4,500人。全国の山間部の町村と同様、過疎化・高齢化に苦しんでいるのが現状だ。

主産業としては林業、農業に加え、鮎など川魚の養殖・加工業があるが、なかでも、長く村の経済を支えてきたのは林業だろう。古い時代、十津川の材は筏に組んで熊野川を南紀方面へ流すばかりだったが、昭和30年代になって五條市から十津川村を通り、和歌山県へ抜ける縦貫道路が開通。山々を縫う林道もほぼ完成して、村の豊富な木材が外界に大量に運び出されるようになった。長年村長の運転手を務めてきた森さんは、「私らが役場に出たころ、山仕事に行った同級生たちは4、5倍の給料をもらっとった。」

と、林業全盛の当時を懐かしそうに語る。

しかし、かつて村に活気を与えた林業も、木材需要の低迷などにより、次第に元気を失っていく。林業従事者の高齢化、経営費の上昇による保育意欲の減退など、国内林業が抱える問題は、今、十津川においても同様の悩みをもたらしている。

このような状況の中、村は「平成の大合併」において自立を宣言。今後も、十津川郷の伝統を胸に、自ら歩んでいく決意をした。

もちろん、主産業だった林業の衰退や過疎化・高齢化に加え、昨今の地方交付税の削減などが重なって、村財政は厳しい運営を迫られている。村では、平成18年4月に「集中改革プラン」を策定。特別職・職員の給与カットや定員の削減、各種事業の徹底的な見直しによって、自立への道を模索している。

電源開発の村として

村の真ん中を蛇行しながら南北に流れる十津川には、昭和30年代に造られた2つの巨大なダムがある。昭和35年に竣工した風屋ダムと、同じく37年にできた二津野ダム。

戦後、国土開発の機運が増す中で建設されたこの2つのダムと水力発電所によって、十津川は、電源開発の村という新しい顔を持つようになった。この開発に伴って山々には林道が走り、ブナ等がパルプ材として大量に伐採されるが、このことが、のちに大きな問題を生むことになる。

十津川に築かれた風屋ダムと二津野ダムは、それぞれ大きなダム湖を形づくっている。このダム湖に流れ込む大量の土砂に、今、村は頭を悩ませているのだ。

林業全盛の頃に伐採された跡地は、やがて杉や桧の人工林になった。これによって、山の保水力がなくなり、降った雨が大量の土砂とともに一気に川に流れ込むようになる。この繰り返しで河床は徐々に上がり、現在、景観の破壊と水の濁りが著しい。この事態に、村はダム管理者である電力会社との交渉に入った。協議の結果、平成17年に、電力会社との間で堆砂排除に向けた協定書を取り交わす。

その内容は、毎年14万立方メートルの土砂を取り除くこと。さらに、集めた土砂を砂利採取協同組合に販売することで得た利益のうちの一定額を、村の森林整備・治山事業や林道整備などに対する協力金として支払うことのふたつだ。川に流れ込む土砂は年間52万立方メートルを超えるというから、排除される堆砂の量はごく一部に過ぎない。しかし、村が積極的にその解決に乗り出し、電力会社と協定書を取り交わすまでに至ったのは注目すべきことだ。

さらに、村は、河川環境に関してもうひとつの成果を挙げている。村の北部、十津川の支流旭川に、最大発電電力量120万kwの揚水発電所を併設する旭ダムがある。このダムでは、昭和53年の完成からダム湖内の濁りがひどくなり、堆砂の進行も懸念されるようになっていた。そこで村は、ダム・発電所の管理者である関西電力と原状回復に向けての協議を行い、バイパス放流設備の設置にこぎつけたのだ。

「旭ダムバイパス放流設備」は、流入する濁水や土砂をダム湖上流端の呑口から取り込み、延長2.35㎞の水路トンネルを通して、ダム下流の吐口から放流するというもの。これにより、上流からの土砂をダム湖に溜めることなく、下流へ流すことができるようになった。平成10年の設備完成以降は、河川環境も徐々に改善しつつあるという。

現在、全国の水力発電所を抱える市町村は、固定資産税の減額に加え、急速な過疎化・高齢化などで厳しい状況に追い込まれている。十津川村もその例外ではないが、電力会社とのねばり強い協議の末に勝ち取ったふたつの成果は、水力発電所を持つ全国の市町村に勇気を与えるものといっていいだろう。

二津野ダムの写真

二津野ダム

十津川の堆砂排除事業の写真

十津川の堆砂排除事業

自立を目指して

 「平成の大合併」を経てなお自立の道を選んだ十津川村が、これから様々な取り組みを打ち出していくにあたり、キーワードとして掲げたのが、「心身再生の郷」づくりである。高度経済成長でカネとモノを追い求めてきた結果、人々が忘れてしまった“ほんもの”“日本の心”を、十津川村は今も大切に守り続けている。その、自らが持つ“ほんもの”の魅力と価値を内外にひろく発信し、村の活性化につなげようとするものだ。

 「心身再生の郷」づくりの具体化にあたって、今期待が集まっているのが温泉を中心とした観光業だ。なかでも、秘湯として名高い「十津川温泉郷」には、年間30万人を超える入込客がある。

 「十津川温泉郷」は、湯泉地・十津川・上湯の泉質の異なる3つの温泉からなっている。源泉温度は60~85℃と、奈良県で唯一の高温泉である。温泉地としての歴史は古く、十津川・上湯はともに江戸時代中期。湯泉地は室町中期にさかのぼり、戦国の武将佐久間信盛も湯治に訪れたという。

 平成16年6月、村は、「源泉かけ流し宣言」を発表。“ほんもの”の温泉を全国にアピールし、観光客も村民も元気になる「心身再生の郷」づくりの象徴として、今後も整備に努めていくこととした。村の各宿は湧き出した温泉を湯船にそのまま流し入れ、それを再利用しない。このため、お湯は常に新鮮さを保っている。「秘境」といわれる十津川の深い山々を眺めながら入る温泉は格別だ。

 「源泉かけ流しのため、宿の湯船はどこも小さめだが、それがまさに「ほんまもん」の証し。」と、村観光課は胸を張る。昨年には公衆浴場「庵の湯」が完成し、入り込み客数の増加にも期待が集まっている。

 もうひとつ、十津川村には全国に誇る「資源」がある。平成16年7月にユネスコの世界遺産に認定された「紀伊山地の霊場と参詣道」だ。これには、奈良県、和歌山県、三重県にまたがる熊野古道小辺路、中辺路、伊勢路と、吉野・大峯・高野・熊野に点在する霊場が含まれる。このうち、修験道の根本道場である大峯奥駈道と熊野古道小辺路が、十津川に連なる山々の尾根を縫うように続いている。

 この貴重な「資源」を活かして村の活性化につなげようとするプロジェクトが、この夏から始まった。「やたがらすプロジェクト」と名付けられたこの取組みは、「心身再生の郷」づくりを掲げる十津川村が、世界に誇る大峯奥駈道をつかって地域活性化を図ろうとするものだ。

 プロジェクトが起こるきっかけになったのは、更谷慈禧(さらたによしき)村長(59)の、村づくりにかける思いである。

 「人口減少と産業の衰退で、村は存続の危機を迎えている。10年後、20年後もふるさとが元気でいるためには、国に頼らず、自分の手で産業を育成する必要があった。」

 取材に訪れた筆者らを前に、村の将来を語る村長の言葉には自然と熱がこもる。

 プロジェクトの中心は、険しい道のりが続く大峯奥駈道を1泊2日で歩く「なびきTOUR」。村民の語り部がこの古道ウォークを先導する道すがら、参加者が自分の頭で考え、自分なりの答えを出す体験型ワークに参加するというもの。物見遊山が中心のこれまでの観光旅行とはあえて一線を画し、自分の「心」と「体」を使ってゴールを目指すという「能動体験」を通して、参加者は強い満足感を得る。まさに、「心身再生の郷」づくりを目指す十津川村にふさわしい内容となっている。

 村では、これらの取組みで得た成果を活かして、さらに「心身再生の郷」の実現に力を注いでいく考えだ。村再生の思いを込めた一連の動きが今後どう展開していくのか。なお注目が集まっている。

昴の郷マラソン大会の写真

昴の郷マラソン大会

ふるさとへの思いを胸に

 大和十津川御赦免所(ごしゃめんどころ) 
 年貢要らずの作り取り

 と謡われてきたように、十津川郷は古くから租税を免除された土地だった。伝説では、672年壬申の乱の折に、大海人皇子側に味方した功績で免租されたというが、確かなことはわからない。しかし、平地の少ない十津川村には水田がほとんどなく、米が大変貴重だったこと。さらに年貢の徴収がなかったために、外界の支配に縛られることが少なかったことは事実のようだ。

 その一方で、勤王の武士団として知られた「十津川郷士」は、壬申の乱以来数々の国事にかかわってきた。十津川村に今も残る独立の気風は、こうした歴史に根付いたものだろう。

 明治23年の立村から時は流れて幾星霜、現在もなお単独村として歩む十津川村。小規模町村をとりまく現状を考えると、自立を決意した村が進む道のりは、険しさを増していると言えるのかもしれない。

 その険しい道のりを、村はどう乗り切っていくのか。行政と村民が一緒になって、今それを必死に模索している段階だ。

 しかし、そのために最も必要なものを、十津川村はすでに持っている。取材の最中、多くの人に話を聞く中で感じた、ふるさとに抱く熱い思い。その思いと「十津川郷士」の気概を脈々と受け継いできた村の新しい挑戦は、すでに始まっている。

十津川村の写真