ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > 町村の取組 > 長野県小布施町/小布施のまちづくりと自立(自律)への取り組み

長野県小布施町/小布施のまちづくりと自立(自律)への取り組み

印刷用ページを表示する 掲載日:2006年7月10日更新
栗の小径

長野県小布施町

2567号(2006年7月10日号)
企画グループ主査 高野伸一


600年の歴史を誇る栗の名産地

小布施町は、長野県東北部、長野盆地(通称善光寺平)の東縁に位置する標高300~400m、面積  19.07平方km、人口約1万2千人の小さな町です。町域は松川扇状地末端に広がり、北西に緩く傾斜していま す。県都長野市の西に位置し、東西南北を3つの川と1つの山に囲まれて他市町村に隣接し、飯綱山、戸隠 連山(高妻山)、黒姫山、妙高山、斑尾山の北信五岳を一望できる環境にあります。

年間降水量は1,000㎜以下で、寒暖の差が激しく、夏は最高35度後に上がり、冬はマイナス10度前後まで下がる寡雨・内陸性の気候です。かつて松川は、何度も氾濫し田畑を荒らしましたが、これが、土壌を栗の生育に適した強酸性の砂礫質に変えることとなり、小布施を栗の名産地にしました。

小布施栗
小布施栗

江戸時代後期には、千曲川の水運を利用した流通が盛んになるとともに、越後小千谷・十日町から中野を経て上州に至る大笹街道と、直江津・高田から柏原・豊野を経て山田街道へ抜ける道が物産・交易で賑わい、小布施町は北信濃の経済・文化の中心として栄えました。この賑わいの中から生まれた豪農・豪商たちは、葛飾北斎、小林一茶ら多数の文人墨客を招き、今に続く文化の薫り高い雰囲気が形づくられました。

昭和29年の小布施村の町制施行と都住村との合併を経て現在の小布施町となり、平成16年には町制施行50周年を迎え、現在に至っています。

歴史と文化のまちづくり

北斎館周辺の町のにぎわい
北斎館周辺の町のにぎわい

昭和30年代から始まった高度経済成長期には、それを支える労働力として地方から大都市への若年層の人口の移動が全国的に激しくなり、小布施町でも昭和40年代前半まで人口の減少が続きました。

こうした人口減少傾向に歯止めをかけようと、積極的な宅地の造成・分譲による人口増加策が行われました。

昭和51年には、葛飾北斎の画業を讃えるとともに、肉筆画を保存・展示するため「北斎館」が建設され、小布施町は北斎の町として脚光を浴び始めます。昭和58年には北斎を小布施に迎え入れた郷土の豪商・高井鴻山の隠宅・然楼を修復保存し、「高井鴻山記念館」を開館、さらに平成4年には現代日本画家で、小布施出身の中島千波氏の作品を中心に展示する「おぶせミュージアム・中島千波館」を開館するなど、北斎を中心に芸術文化のまちづくりを進めてきました。

外はみんなのもの、内は自分たちのもの

昭和61年、北斎館・高井鴻山記念館周辺の歴史的建造物の保存と地域の特性を活かしたまちづくりを進めようと、町・事業3・個人2の6者により実施された「修然楼周辺町並修景事業」が完成し、その間に栗の木煉瓦を敷き詰めた散歩道「栗の小径」も誕生しました。

重要な歴史的建造物の保存、新築建物の周辺との調和、土地は売買せず賃貸か交換することとされ、6者が対等な立場で面的な整備を行ったこの方法は、画一的な都市再開発の手法とは異なり「小布施方式」とまで言われ全国的に高い評価を受けました。 その後、周囲の景観との調和と美しい町並づくりのための指針「環境デザイン協力基準」を定めるとともに、「住まいづくりマニュアル」などを作成するなかで、「外はみんなのもの、内は自分たちのもの」という意識が住民の間に芽生え、住宅の配置、外観への配慮、さらには通りを行き交う人に安らぎを与える花壇や生け垣づくりなどに発展していきました。

花のまちづくり

昭和50年の中学校緑化部から始まった花づくり運動は、育成会や老人会、自治会を通じて全町に広がり、町民グループによる花づくりが盛んに行われるようになりました。

オープンガーデン
オープンガーデン

平成4年には、北斎の鳳凰図をモチーフにした回遊式の花壇や観賞温室を備えた花の公園「フローラルガーデンおぶせ」が開園し、多くの人が訪れるようになりました。さらに平成9年には、花の育苗施設「おぶせフラワーセンター」を整備し、農家への花苗の提供による市場への出荷、販路開拓による花の産地化も進めています。平成12年からは、個人の庭園を一般に公開し、来訪者との交流を楽しむ「オープンガーデン」がスタートしました。住民と行政が協働によって運営するオープンガーデンは小布施町が全国で初めてであり、平成18年は61軒の家庭が参加しています。

こうした住民と行政が一体となってまちづくりを進める小布施町には、全国各地から年間130万人が訪れています。このように、昔から文化志向の高い地域性に加え、歴史と文化の町に暮らすことの誇りがまちづくりの気運を高め、内外から高い評価を受けるに至ったのです。

自立に向けた将来ビジョンの策定

平成12年頃から市町村合併問題が全国で問われるようになりました。小布施町でも、町の未来をどうすべきかを住民の総意によって決めるため、市町村合併についてより多くの住民の方が話し合える場を数多く設けてきました。

具体的には、広報での特集記事の掲載とともに、3ヵ年に渡って地域毎に住民懇談会を開催し、情報の提供と町民意向の把握に努め、検討を重ねました。町民1,000人を対象に行った合併のアンケートでは「合併を進めるべきでない」が「進めるべきである」を大きく上回りました。 さらに100人の委員による市町村合併問題懇話会でも「自立に向けて進む」が多数を占め、町の将来を担う中学生との意見交換でも8割以上の生徒が「合併に反対」と回答、町議会からも「苦しくても合併せず、自立の道を歩むべきである」との報告書が町長に提出されました。

町ではこれを受けて「自立に向けた将来ビジョン」を策定、平成16年2月の「これからの自治をともに考えるシンポジウム」で発表し、小布施町の自立宣言としました。

自立に向けてあるべき姿は「町民一人ひとりがそれぞれの役割を担いながら、先人が築きあげてきた小布施町の歴史・文化・自然などをより一層豊かにし、次代に伝えていくことである」と将来ビジョンはまとめています。

町民との協働によるまちづくり計画の策定

平成17年1月、4期16年にわたりまちづくりを進めてきた唐沢彦三町長が勇退し、市村良三町長が就任しました。市村町長は町政運営の基本方針で「小布施町の自立を将来にわたって確固たるものとし、後世に誇りうるまちづくりの礎となるよう真摯に取り組む」と述べ、まず町民との対話を第一の優先課題として取り組みました。

住民懇話会(後期基本計画)の様子
住民懇話会(後期基本計画)の様子

折しも、平成13年に策定した第四次町総合計画・後期基本計画策定の年でもあり、より多くの町民参加による町民主体のまちづくりを進めようと自治会単位での住民懇談会を開催しました。3ヶ月の間に26自治会で懇談会を開催、延べ920人の参加を得て、まちづくりに対する提言、要望、質疑等を受け、これからのまちづくりに向けた熱心な討論、懇談を行いました。

さらに公募町民約150人による「協働のまちづくり懇話会」を組織し、「自立」「健康と福祉」「住みよい環境」「教育と文化」「活力のある産業」の5つの部会で半年余の間に延べ40数回の会議を重ねました。「今、小布施町のために何を優先して行うべきか、町民一人ひとりは何ができるか」など、熱くまちづくりへの想いを語っていただき、将来に向けた意見交換を行う中で、後期計画への提言をいただきました。

そのほか、15歳以上の町民1,000人を対象としたアンケートの実施など、より多くの町民参加と町民主体の計画づくりを重点に置きながら計画づくりを進め、2回目の住民懇談会を開催し計画の原案を提示、意 見を求め、さらに基本構想審議会での審議を経て平成18年3月、これから5ヵ年のまちづくりの指針となる 後期計画を策定しました。

時代の変革とともに計画のあり方にも大きな転換が求められている今、施策の重要性や緊急性の視点から、少ない財源を効率的に配分するとともに、今まで以上に町民のまちづくりへの理解と参加が不可欠です。 この計画は、町民と行政が一緒になって考え、共に行動し、「協働」していかなければ、実現し得ないものです。しかし「いにしえ」から小布施人に連綿と受け継がれてきた郷土を愛する心と、過去数十年にわたり育まれてきた小布施流の協働のまちづくりの理念があれば、計画は実現できると確信しています。

まちづくりの「第2ステージ」へ

自然と歴史風土に根ざし、地域の活力と個性を引き出しながら、民官一体のまちづくり・地域づくりを進めてきた小布施町の先駆的な取り組みと成果は、全国の自治体などから注目されています。しかし、そうした目に見える現象に注目するあまり、足元が疎かになってはいけません。小布施流のまちづくりをさらに発展させる新たな取り組みが始まっていますので、そのいくつかをご紹介します。

まず、東京理科大学・小布施町まちづくり研究所の設立です。そこに住む人だけでなく、訪れる人にも優しい小布施の景観づくりは、欧米のまちづくりの「真似事」ではなく、そこに住む人々の生活環境の「内側」から問題意識を高めていった成果です。その理念と手法をより確かなものとして成果を内外に問い、さらに日本全国へ、世界へ向けて発信していくための協働研究の場が創設されました。

東京理科大学と小布施町との協働研究の一環「町遺産・まち歩きワークショップ
町遺産・まち歩きワークショップ

まちづくり研究所の中心となる研究室の学生は、月1~2週間滞在し、町へ出て研究活動を行います。町内に9千棟ある建物から景観要素を探るため町内の道を歩き建物調査を実施する学生に、ぶどうやりんごの差し入れをしたり、学生を家に招いて食事をする町民も増え、交流も育まれてきました。

平成17年8月には小学生との「町遺産・まち歩き」ワークショップ、11月には研究室で活動報告の展示と、まち歩きワークショップの発表会、研究報告、シンポジウムが大勢の町民の参加の元に開催されました。東京理科大学と小布施町の協働研究はまだ始まったばかりですが、さまざまなテーマで小布施のまちづくり研究に取り組んでいきます。

小布施ブランドの構築

全国でまちづくり活動の激化が予想される中で、自立を目指す小布施町には、独自性を持った自立した経済構造の構築が必要です。町では基幹産業である農業を中心に、それを製造業(農産物加工)とサービス業(販売・飲食)を結びつける六次産業を推進してきましたが、従来の「農産物の付加価値と雇用を創出し、加工から販売まで生産者自らが行う」というコンセプトから、さらにもう一歩前進して小布施の新たな農産物ブランドを強化したい、という関係者の想いがありました。そこで、小布施町振興公社が核となり、新たなブランド戦略への挑戦を始めています。

まず、振興公社ブランド「小布施屋」による販売戦略です。商品パッケージやラベルなどのデザインを刷新、販売ブースのリニューアルに着手しました。これにより小布施の農産物・商品のイメージアップを図り、販売ルートの拡大を狙います。味はもちろん、売り方、包装、店の構え、接待、挨拶など、一つ一つにこだわりを持たせないとブランドにはなりません。 さらに振興公社では、従来からの小布施特産品であるりんごなどの一つひとつの品質の確保のための取り組みを進めるのと同時に、新たな小布施ブランドの農産物とすべく市場価値の高い地域の伝統的な野菜に加え、新規の野菜の開拓、研究を進め、小布施独自の栽培・販売を行っていく予定です。

小布施屋の様子
小布施屋

隣接するフローラルガーデンおぶせには平成18年5月、洋食レストラン「小布施花屋」がオープンしました。小布施花屋は、小布施産の採れたての新鮮な農作物や、新たに栽培する新規野菜を料理として提供する「食育」の発信の場でもあります。小布施花屋の誕生をきっかけに、「食育」がコンセプトの、民間活力による良質な農村レストランなどが周辺部にも広がり、食育、地域づくり、経済効果の相乗作用、さらに、民泊と連携した交流産業の創出の期待も高まっています。

「協働のしくみ」を考える

後期計画の策定の際には、懇話会参加者から、住民と行政の協働を進めるためには、これから小布施のまちづくりをどう進めていくのか、そこに住民がどう携わっていくのか、より多くの住民が語り合い、お互いの情報を共有し連携していくための仕組みと、基本的なルールづくりが必要との提言をいただきました。 後期計画でも、そのための場として「町民会議」の創設と「町民活動基本方針」の策定を計画に掲げています。全国の先進地の事例を調査研究しながら、小布施らしい独自性をもった「協働のしくみ」を、平成18年度から19年度にかけて検討していきます。

おわりに

小布施町は従来から、そこに住む人優先のまちづくりを、住民との協働で進めてきました。「協働」とは、あるべき姿の実現に向けて、それぞれの主体(住民、地域、団体、企業、行政など)が対等な立場で共通の目標に向けて協力し合うことではないでしょうか。 これからの社会には、多様な担い手がそれぞれの役割を果たす新たな支え合いの仕組みの構築が必要不可欠です。また、それこそが自治本来の姿であると確信しています。 町民の誰もが、このまちに生まれてよかった、住んでいてよかったと実感できる、誇れるまちを創るために、「自立と協働のまち」の姿を確固たるものにしていきたいと思います。