2566号(2006年7月3日号)
町長 柏原 重海
上関町は、山口県の東南部に位置している室津半島の先端部と長島、祝島、八島を中心とした島しょ部によって形成されています。
町の面積は34.79平方km、地形は半島部と島しょ部を含めて、傾斜地が多く平野部が極めて少ないので、集落は傾斜地にひしめくように密集していて、丘陵地に棚田や段々畑、山の中腹には果樹園があります。畑の幅よりも、そのために積んでいる石垣の方が高いところが珍しくありません。
気候は温暖で、雨が少なく過ごしやすい町ですが、離島は今でも島内の水源で自給をしている状況なので、雨が少ない時期には、飲料水にも困ることがあります。
本町は瀬戸内海国立公園内にあって、穏やかな青い海と白い砂浜、近くの小さな島々を縫うように漁船が走っています。行き交う船の遙か向こうに四国・九州をのぞみ、移りゆく四季の景観と海に沈む夕日など、1年を通じて美しい自然に恵まれた町です。
また、上関海峡を有することで、近代以前から海上交通の要衝として栄えてきました。平安時代には既に港町として形成されていたと伝えられています。その後、大陸と都を結ぶ中継基地として、また、大阪への物資運搬の中継点、更には、朝鮮通信使の船など多様な交流、交通の拠点として繁栄しました。
これらの歴史や文化を基として、海運業や造船業などが地場産業として発展しました。
上関海峡
人口は、昭和25年の13,000人台をピークに減少をして、昭和40年代には大都市への人口集中化による社会減があり、昭和50年代以降は、年齢構成のバランスが崩れ、高齢化率が高くなりました。その後、多少の変動を繰り返して、現在は3,941人です。
産業については、海運業・造船業とともに、昔から漁業との関わりが深く、沿岸部には大小の島々、沖合には伊予灘、周防灘の海流が交錯するという好漁場があり、漁業は、今でも本町の基幹産業となっています。本町の地域内では、主に1本釣りや建網などが行われています。
観光については、海水浴客と釣り客が多く、中の浦海水浴場、八島地区の古浦キャンプ場があります。室津半島スカイラインの終点部の標高526.7mの皇座山、室津地区の重要文化財「四階楼」、上関地区の山口県指定有形文化財「旧上関番所」、上盛山展望台も一年を通じて観光客が訪れています。
本町から最寄りの鉄道駅は、山陽本線の柳井駅。上関地区からはバスで約1時間を要します。町内の交通網は、町営バスが各地区を1日3便で結んでいます。離島については、町営の定期船が八島.上関間に、第3セクターの定期船が祝島.柳井港航路を1日各3便就航しています。
岩戸神楽
神舞を伝承している祝島は、室津半島南端から南西約10㎞の周防灘に浮かぶ、急斜面となだらかな島頂部の周囲12.7km、面積87.33平方km、標高357.4mの島です。人口は現在571人です。
祝島は、冬季の季節風と台風が強く吹くので、昔から防風のために、家の周りに独特の石積みの練塀を造っています。海岸沿いの家では、軒より高いものも見受けられます。
農業では、みかんとびわを多く栽培しています。特に、びわは「祝島びわ」として定評があります。
「神舞」の由来は、今からおよそ1100年前、平安前期にさかのぼります。
ある時、豊後へ帰航中の神官の一行が祝島沖で難船し、祝島三浦の者に救助されます。そのころ三浦には3軒の家がありました。彼らは未だ農耕を知らず、木ノ実、草ノ実を常食とする生活でしたが、一行を心からもてなしました。一命を助けられた一行は、お礼として麦の栽培と神まつりの方法を伝授します。
この由緒をもって、以後豊後から4、5年に一度来島して神楽を奉納するようになりました。
1100年前のいにしえの時代から現代まで、連綿と続く神事もいくつかの時代を通過する中で、様々な問題を抱えていたことと思います。今では想像もつかないことが、支障となることも多分にあったことでしょう。
この神舞の由来に関する最初の史料は、元禄10年(1697年)7月28日「御尋ニ付申上候事」に記されています。神事を執行するために、他藩との関わりがあるということで、藩府への届出が必要であったこと。また、行事の内容を確認するために、検視役を派遣され存続が危惧されたこともありました。
それが、現代に伝承されているのは、それぞれの時代で生じた諸問題を、祝島・伊美別宮社が力を合わせ、よく話し合い、継続していくことを確認し、熱心に取り組んできた賜と思っております。現在においても様々な問題があり、それらを克服して開催をしています。
地元の関係者が代々にわたり、ご苦労のあったことは、容易に想像できます。しかし、詳細については、今の上関町内にある史料においても十分とはいえず、また他に調べる術もないので、この度は、地元の祝島神舞奉賛会会長の橋部好明さんに、祝島の人の神舞に対する意識とか、伝承するご苦労などをお聞きしてレポート作成のご協力を頂きました。
祭事は旧暦8月1日から開催され、期間は5日間でしたが、昭和27年の神舞以降8日間にわたって行われるようになりました。
概要は次のとおりです。
第1日は、伊美別宮に宮司と神楽師を迎える。第2日は、入船神事が行われ、伊美別宮の神霊が仮神殿に移される。第3日は、岩戸神楽の奉納が始まる。第4日は岩戸神楽奉納。第5日は、夜戸神楽奉納。第6、7日は、舞添神楽奉納。第8日は、長慰斗の儀、出船行事を行います。
神楽を舞う九州伊美別宮社の里楽師は、元は30名前後いたと伝えられています。また、神舞は往昔から、岩戸神楽24番と夜戸神楽13番が奉納されるしきたりとなっています。これまでいくつもの時代を経て、それぞれの時代に合うように、いくらか変容しながら継続してきました。
櫂伝馬
神舞は、島民総出による準備作業をしていく中で、島民が一体となって守るべき祝島の宝とされ、また伝統文化として、地域社会の振興と融和の礎となっています。そうしたなか、最近は帰島した人達も積極的に準備作業に加わり、「おらが祭りだ」という意識を強く持ち、協力的になり、都市住民との連帯感が強まり、地域交流を促進しています。
一方、九州伊美別宮社の関係者の、この祭りにかける意気込みも次第に強くなっています。昭和48年には、神舞で奉納される神楽は、「伊美別宮社の神前神楽舞」として、大分県重要文化財となっています。
なお、昭和51年に「祝島の神舞神事」は、山口県指定無形民俗文化財として告示されました。
今後、神舞伝承を維持していくにあたっては、いくつかの課題もあります。
各儀式(三浦荒神祭、入船神事、鎮座祭、出船神事等)には、しきたり、作法、運びが細かく定められていて、それを忠実に守りながら儀式を進行することには大変な労力が必要です。今に伝わる備品も含めて、多くの皆様のご協力を得ながら、神舞行事の完全な保存と伝承に努めていこうと思っています。
また、この祭りには、相当な経費もかかりますが、何よりも手作業の部分が多いので、過疎、高齢化による人手不足が大きな悩みとなっています。特に、櫂伝馬の漕ぎ手と、仮神殿の建設と維持には男手が必要なので、その確保が困難になっています。これらの解消策として、神舞の日程を、平成4年から5日間に短縮しました。
第1日目:朝早く伊美別宮社に神官、里楽師らを迎えに行き、三浦湾での荒神祭を終えると、午後入船神事を行う。本浦港外を櫂伝馬の先導で3巡した後、上陸して仮神殿に向かい着御祭、長慰斗、お宿の儀を行う。
第2日目:岩戸神楽奉納十二番
第3日目:岩戸神楽奉納十二番(岩戸開き)
第4日目:夜戸神楽奉納十三番。大歳社参拝。米占いをして次回開催年を決める。なお、舞添えの祈願神楽は、十番に集約して両神楽奉納の間に入れる。
第5日目:出船神事は、里楽師全員による三番神楽(扇の舞)が奉納された後出御祭。港外を3巡したのち伊美港に送るという、一連の行事があって神舞は終わる。
これら一連の儀式を行うためには、櫂伝馬の船頭、踊り子、太鼓打ち、巫女などの確保と指導者の育成が、やはり最大の課題と言えます。
三浦荒神祭の様子
明治以降、神舞中止となったのは、戦時中の昭和19年と59・63年の3回だけ。しかし、神舞に関連する、麦を俵につめて別宮社に参拝する「お種戻し」は途切れることなく、毎年続けられてきました。現在は簡素化されていますが、地域代表が紋付袴姿に正装して行われた以前の行事に復活したいと思っています。
また、今回、櫂伝馬船も46年ぶりに新造され、次世代へと引継がれました。
そうした努力の積み重ねがあっても、過疎化、高齢化、少子化した世相は如何ともし難く、平成12年まで祝島地区、祝島関係者のみで守ってきた神舞は、今新たな局面を迎えています。これからは、祝島関係者の師弟を公募したり、また有志(留学生、商船学生、上関町職員など)による支援も受け、伝統を守りながらも新しい形を模索していきたいと思っています。
平成17年2月、「オーライ!ニッポン全国大会」の第4回「むらの伝統文化顕彰」で、祝島の神舞が農林水産大臣賞を受賞しました。また、平成18年2月には「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」で、「祝島の神舞と石積み集落」が再び農林水産大臣賞を受賞しました。最近では、ホームページによる情報発信やマスコミによる取材が度々行われるようになり、知名度が全国レベルになりました。
このような神舞による知名度のアップが、石積みの練塀や万葉碑のツアーなどの観光面と、良好な自然環境が産み出すびわ、海産物の特産化への取り組みなど島の活性化面にも貢献しています。
1100年前の史実に基づいたこの神舞という祭事を次世代に伝承することが出来るのも、関係者各位の協力があってのこと、心から感謝申し上げたい。と、祝島神舞奉賛会会長の橋部さんは話を終えました。
町としても、島民を挙げての伝統文化の伝承を、傍観することは出来るはずもありません。本町が全国に誇るこの貴重な祭事を伝承していくことに、微力ではありますが、出来る限りの支援をしようと考えております。
住民がよりよい生活をするためには、住民に直接関わる施策が重要となります。しかし、その生活を潤し豊かにするのは、こうした文化財産です。町としても、神舞という文化財産を、責任を持って未来に残していこうと思っております。
そのためには、町自体が力強く、活気にあふれ、明るくなくてはなりません。
今まで歴史文化を受け継いでこられた高齢者の方を筆頭として、これから次代へと引き継いでくれる若者を中心として、世代を超えた交流をして、住民が一体となって文化財産を存続しなければなりません。
本町では、平成17年度からの第3次総合計画において、「花咲く海の町・上関」を将来像として描き、これからのまちづくりを総合的、計画的に進めていくための指針として策定しました。
このような構成で体系化していますが、この度は、特に「歴史と未来」の側面から見た町づくりについて考えてみます。
仮神殿での祝詞
上関町には、県の無形民俗文化財として指定されている祝島の神舞神事や、どんでん祭り、神明祭など伝統芸能があるものの、過疎化、高齢化の進行により、伝統芸能に関わる機会や伝承者の確保が困難となっているものもあります。 これを改善し保存するためには、本町の郷土史に 関わる貴重な財産を歴史教育推進の視点から改めて見直し、体系的に整理して実物の教材とするとともに、それらを伝授していくガイド役の育成及び運営等に対して、ハード・ソ フト両面から支援していこうと考えています。 しかし、陸上交通が不便な本町は、多くの過疎地域と同様に、若者を中心とした人口の流出と高齢化が顕著に進み、今では人口増加率マイナス2%、若年者人口割合7.6%、高齢化率47%という県平均を上回る超高齢社会となっています。特に人口の少ない地区では、高齢者世帯や独居世帯が増加しており、集落の地域活動に支障が生じるなど、地区機能の崩壊の危機が迫っている地区もあります。そのために、集落の機能低下に歯止めをかけ、地域の維持・継承を図る効果的な対策を講じることが急務となっています。
また、本町は、漁業や海運業が盛んに行われていましたが、農漁業など1次産業は、担い手不足や高齢化が顕著になっています。陸上輸送の増加で海運業は衰退の傾向が見え、 さらに、小規模経営である工業、建設業は産業構造の変化により弱体化して、衰退の一途をたどっているように思います。 これら基幹産業の不振により、地域の消費も伸びず、地域経済が低迷し、若年層の町外流出などに拍車がかかる悪循環に陥っています。このため、地域を支える新しい産業と、若者を受け入れる雇用の創出が求められています。
さらに、地理的に平地が極めて少ないという制約もあり、道路や通信、下水など生活基盤整備が遅れています。あわせて、町民の生活を支える公共交通であるバス路線や、離島を結ぶ航路など総合的な交通体系 が十分には整備されていません。
このような生活基盤の遅れは、町民に様々な支障を来すことから住みにくい条件になっており、早い時期での整備が望まれています。
以上の課題を総合的に見て、まちづくりの施策としては、
①歴史・文化を伝承していく者、未来を創り出す者として、若者定住促進のための環境づくり、②雇用の創出、③住宅・ 宅地の供給、④道路網・交通網の充実、⑤教育環境の充実、⑥子育て支 援、⑦下水道整備、⑧情報基盤整備 など総合的な定住環境づくり-等を進めていきたいと考えております。
同時にU・Iターン希望者への情報 発信も進めます。
次に、郷土を愛する人材の育成として、将来のUターン者や担い手を獲得するために、上関の自然や歴史や文化への掘り下げを行い、上関を愛し、誇りを持つ人たちの教育等を推進します。また、上関ファンの拡大による地域の活性化として、特産品開発、集客施設の整備、環境美化、各種体験交流など、海や島を活かした観光・講習の促進や、上関出身者をはじめとする上関に関心を持つ人たちへの全国的な情報発信を行うなど、上関ファン(リピーター)の獲得を支援していきます。
瀬戸内海の豊かな海に囲まれた町で、自然の恵みを余すところなく活かし、地域の環境改善をして、海上交通の要衝として独特の歴史や文化を積 み重ねてきた郷土を守り、可能性を求めて未来ある上関を築いていこうと思っております。
あたたかく、
いきいきと、のびやかに、
うるおいのある町へ