2558号(2006年4月24日号)
町長 松田 貢
「険しい尾根を越えて、非常に美しい風変わりな盆地に入った。その麓に金山の町がある。ロマンチックな雰囲気の場所である。私は正午にはもう着いたのであるが、1日か2日ここに滞在しようと思う。」
金山型宅(川崎)
明治11年(1878年)、イギリスの女性旅行家イザベラ・バード(英国地理学会特別会員)が、単身、日本の奥地(東北・北海道)を幾多の苦難を経ながら旅を続ける途中に金山を訪れ、その自然の美しさに感動し、人情の温かさにふれ、安息の日々を当地で過ごした時の紀行文の一節です。
町を紹介する際のシンボリック表現、或いは、後述する「街並み景観条例」の前文にも引用されているほど、わが町における「まちづくり」の原動力が、この一文に表現されていると言っても過言ではありません。
金山大工(建築)
わが町は、山形県の東北部に位置し、北と西は真室川町、東は秋田県湯沢市、南は新庄市に接する面積161.79平方km、人口約7,100人の町です。
奥羽山系をなす栗駒国定公園など、四季折々の美しさに富んだ山々に囲まれ、また、町を流れる最上川水系の金山川など三つの河川すべてがこれらを源流とし、豊かで清い水に恵まれた自然あふれる町でもあります。
また、ロマンチックな雰囲気の場所として、当時、彼女が観た「杉の林」と「黒ずんだ木組に白壁の家」が自然と調和し立ち並ぶ風景は永い年月を経た現在も変わらず、新たな家並みや、人工林としては日本一といわれる樹齢250年を超す杉の美林も点在し、「金山杉」として名高い太径木の産地でもあります。
初の情報公開制度である「公文書公開条例」は、国の法律制定時に、地方自治体における先行モデルとしての役割を果たし、「街並み景観条例」も、景観の保持と創造、地域産業の活性化と優れた建築大工の技術向上を目的とする住宅建築コンクールとあわせて、景観法制定にも影響を与えたとひそかに自負しております。これらは、全て町民の勇気と努力、住民自治の意識の高さによるものと捉え、町(行政)は、引き続き「透明度の高い行政」「街並み(景観)づくり100年運動」などに取り組みながら、さらに努力することが責務であると考えています。
金山大工(刻み)
わが町は、大正14年1月1日(1925年)に町制を施行して以来、一度も合併することなく「大きな家族、一つの自治国」という意識で、今日までオンリーワンの町づくりを進めてきました。市町村合併が喫緊の課題となった際にも、民意と試案のもとに、当面は合併を選ばずに「小さくてもキラリと輝く町づくり」を探求する道を選択しました。
昭和49年(1974年)に策定した第1次基本構想の「美しい自然 清い心の町 金山」を高級のテーマとし、行政と住民による「自治」で、すんで良かった、住み続けたいと感じられ、新たな交流が誕生するような積極果敢なまちづくりを進めています。
金山町公文書公開条例は、前述のとおり昭和57年4月1日に施行した制度で、24年の月日が経過しました。特徴は、「町の主役であり、また、納税者でもある住民に行政(まちづくり)に積極的に参画していただく」ということであり、本文わずか11条からなる極めて分かりやすいものです。
言わば、行政主導で制定された条例ですが、行政を監視するスタンスではなく、あくまでも住民の理解と共感が得られる行政(まちづくり)を目指すことが基本です。
実は、条例が誕生するここに、力強い「縁」と申しますか、後押しがありました。前町長で、現在は参議院議員の岸 宏一氏の大学時代の友人、田岡俊次さんのアドバイスが条例制定に向けた検討を開始させたのです。
今になって考えますと、国の法律制定に拍車をかけるなどとは微塵にも思わなかったものの、わが町にとっては画期的な施策であり、その当時は全くゼロからのスタートに取り組んだ訳です。朝日新聞にお勤めであった田岡さん等は、記者クラブで「様々な不正事件などを減らすにはどうすればいいか。」議論を重ねたとお聞きしています。
席上、田岡さんが欧米の情報公開を話題にしたのが編集長に伝わり、制度を調査するチーム結成となった後に、当時の日本で、情報公開制度を実現できる自治体はないものか探されたところ、ピンときたのが金山町であったらしいのです。
前町長は、「情報の公開は大変よいこと。うちの町は隠し事は何も無いから、ぜひ資料を送ってほしい。」と即断したのが、昭和55年でありました。
約1年9ヶ月後、「町は保有する情報を提供し、それで住民の方々が行政を知り、共にまちづくりを進める、まちづくりに参加してもらおう。」という条例が誕生し、小さな町の大きな試みとして「先駆的な施策」が全国の注目を浴びたのも事実であり、正しく、町づくりの主役である住民の方々の取り組みは町にとっては大きな誇りとなっています。
しかし、この制度を使わないと情報を提供できない訳ではありません。言わずもがな、行政サービスの中での情報提供が大事であり、そういう前向きな姿勢にたってこそ説明責任が果たせ、当然のように、情報の開示件数の少なさに繋がるものと確信しています。
昨年度末までの申請・公開件数は、情報公開度ランキング調査のために条例を適用せざるを得なかった内容を除けば33件。数の多少には議論が分かれると思いますが、あくまでも制度の視点が「まちづくり」にあるということを大事に考えています。
金山型住宅(やまに)
昭和61年4月1日に施行した金山町街並み景観条例は、切妻型の黒または焦げ茶色の屋根と杉の下見板張り・白壁の外壁(金山型住宅)という基準を満たしていれば、最高で50万円(平成8年度までは30万円)を助成金として交付するもの。制定から20年間で、住宅に関して言えば34%が金山型住宅になり、屋根の色彩変更は68%にのぼりました。
特に平成9年度から増加したのは、制度のPR効果と平成14年に天皇・皇后両陛下をお迎えして開催された「第53回全国植樹祭」によって弾みがつき急増したものと考えています。
これまでの対象件数1,085件、助成金累計額1億8,775万3千円。特筆すべきは、条例の対象となった事業は81億9,838万6千円にもなり、平成18年度一般会計の2.65倍にあたることです。この効果は、町の産業全体からみても「街並み景観づくり100年運動」が着実に進んでいることを顕著に表しています
この1月に「地域づくり総務大臣表彰・地域振興部門」を受賞できましたのも、まちづくりの主役である住民の方々の理解があってこそ頂けたものであり、わが町風に申し上げれば、住民の方々と一緒に町づくりを進めてきたことに誤りがなかったということです。
以前、毎日新聞社から「毎日・地方自治大賞・最優秀賞」を受賞したのも、これまでの日本の行政にはなかったヨーロッパ型発想と、雄大なネットワーク、一世紀をかけ金山町の自然や風景に調和した街並みを造り上げようという構想が受賞の理由であり、完成までには莫大な時間を必要とするものであります。
当然のように、私達はその日を迎えられませんが、必ずやこの町に住む子孫には、その日が来るであろうし、また、しっかりと観ていただきたいと思っています。
この施策に全国からたくさんの視察をいただいておりますが、散策コースにある「大堰(おおぜき)」の改修をおこなった昭和50年代始め頃、農業用水に「三面石張りの水路がなぜ必要なのか。」と随分と国を困惑させたことがよく話に上ります。
金山杉
しかし、今では水に親しむとか水と安らぐ施設の整備としてモデル的な存在となり、町を訪れてくださる方々からも共鳴を受けるほど、町(行政)は果たすべき役割と考え方に責任を持ち、それらに住民の方々から理解を得た上で、きちんと成果を生むことが大事であることを示唆しているのではないでしょうか。
現実(いま)をしっかり見極めるとともに将来(みらい)を見据え、進むべき道を誤りなく判断することをまちづくりの原点と考えながら、これまで取り組んだ様々な施策を土台にさらにステップアップを図りたい。自律するために、住民と行政が「自治」を共生し、互いに切磋琢磨する、それが金山町にとって最も大切なことだと考えてこれからもチャレンジしていきたいと考えています。