カヌーで自然体験
五右衛門風呂で笑顔
北海道常呂町
2524号(2005年6月20日) 企画財政課長 長谷川 京
北海道の東部に位置する常呂町は、オホーツク海とサロマ湖とを擁する夢の場所である。
人口、およそ5千人。女満別空港からは50分ほどの、四季の彩りが豊かな、美しい町である。
サロマ湖は、ホタテ養殖の発祥の地である。オホーツクは、国内有数の豊かな漁場であるが、その基幹をなすホタテ漁業は、サロマ湖を揺りかごとして育てられる健全な種苗が原点となる。その品質の高さと生産力ゆえに、「ホタテ王国」とも称される常呂の漁業は、生態系漁業という21世紀の漁業のパラダイムを構想し続ける、漁業者の誇りに負うところが大きい。
オホーツクとサロマ湖とを隔てる20㎞余の砂州上に広がるワッカ原生花園は、日本最大の海岸草原である。300種を超える植生の多様性と群落のスケールの大きさで、奇跡の生態系と評される。このかけがえのない大自然を、より良い状態で後世へと引き継ぐべく、平成3年に花園を巡る町道を廃止し、すべての車両の通行を規制した。町民の総意であった。
サロマ湖を見下ろす小高い森に、「ところ遺跡の森」が広がる。国の指定史跡である「常呂遺跡」の発見を契機に、東京大学の研究施設が設置され、教授をはじめとする研究者が常駐する。まもなく半世紀を迎える。旧石器時代から縄文、続縄文、擦文を経て、オホーツク文化期、アイヌ文化期までの多様な遺跡群が数多く存在する。北方文化研究の重要な拠点である。
かつて司馬遼太郎は、「採集のくらしの時代、常呂は世界一のいい場所だったのではないか」(「オホーツク街道」~街道をゆく38)と記した。2万年を超える、はるかなる人々の営みのフィールドが、私たちのふるさとである。
昭和40年前後を境に、日本は高度成長期に入る。全国各地の農村漁村地域では人口の流出が続き、深刻な過疎問題に直面する。
常呂町も例外ではない。
オホーツク海に面した常呂町の市街地から、25㎞ほど離れた山あいに、かつてハッカ栽培などで栄えた入植地があった。四国地方の出身者が多く、吉野川への愛着から「吉野」と名づけられた地区である。
吉野小学校の児童数は最盛期には64人を数えたが、昭和50年には2人となり、翌年3月の卒業式をもって、57年の歴史に幕を閉じる。
過疎化の荒波は、校庭のカラマツ林に響き渡る子どもたちの歓声を、奪い去った。
その後校舎は、養豚場に姿を変えた時期があったもののまもなく閉鎖され、放置される。
一人の男の登場である。
滝沢始。当時、65歳。
長野県に生を受けた滝沢は、幼少時に父をなくし苦労を重ねたという。子どもの時に、子どもらしい遊びができる環境に恵まれることのないままに育ち、やがて戦時下に。終戦後、自衛官として勤務し、退職後に学校図書などを扱う会社に勤めた。
退職したら、子どものころに戻って、大自然と子どもたちを相手に暮らしたい。自然児に帰りたい…。友人によると、早くからそうした自分の夢にふさわしい場所を探し歩いていたという。
平成元年の春、滝沢は旧吉野小学校の校舎を買い取った。小川にザリガニを追い、裏山にクワガタを探し、流れる雲に夢想する…。吉野の自然は、滝沢にとっての夢の場所であった。
その日から、滝沢の「夢を形へと変える」ための、たった独りの作業が始まる。あばら家と化していた校舎の修繕、雑草に覆われたグラウンドの整備、教室のひとつにオガクズを敷き詰めたカブトムシやクワガタの飼育室づくり、校庭には池を。滝沢の夢への挑戦が続く。
よその町からやってきた、少年の目を持つ滝沢の挑戦に、地域がざわめく。他人の力を当てにすることのない滝沢の行動力と、そのあまりにも実直な人柄に、「自然に手伝ってあげたくなるような」オーラがあった。
滝沢の夢が、地域に伝播する。
情報の発信力において極めて秀逸な、NPO自然体験村のホームページは、こう記す。
〔一人の男が、子どもたちに夢を与えるために、廃校を買った/平成元年の出来事だった/荒れ果てた学校を、毎日一人でコツコツと/子どもたちが笑顔で駆け回る、そんな日を思い浮かべながら/昆虫の家創始者/滝沢始さん/一人の思いが実を結び、地域の大きな流れとなった/地域のみんなの力で、子どもたちの笑顔がいっぱいの施設へと、変貌を遂げていった/すべては、地域の人々が手弁当で駆けつけての作業であった〕
だが、〔それは突然やってきた/ 平成3年秋/昆虫の家創始者/滝沢始氏/昆虫の家にて死去〕
滝沢の急逝後、地域の人々はその遺志を継ぐことを決めた。滝沢の生きざまを、この場所の主人公である子どもたちの笑顔を、そして自分自身の自然児への回帰の夢を、幾度も確かめ合いながら下した結論であった。
こうして、平成4年の春、「虫夢(むーむー)ところ昆虫の家」が設立された。「虫夢」は、虫けらたちの夢を意味するという。虫けらたちの意志は、どこまでも重い。
滝沢の他界から10年の歳月が流れた年に、NPO自然体験村「虫夢ところ昆虫の家」として、NPO法人の認証を受けた。
あばら家同然だった校舎は、体育館が宿泊施設へと変身し、世界の蝶の標本展示館やカブトムシ飼育室、ニジマスの池、列車ホテル、キャビン付きのキャンプ場、ホタルの川などが、すべて手づくりで整備されている。
なによりも圧巻なのは、かつてはハッカの蒸留釜だった、露天の五右衛門風呂である。冬には降りしきる雪で温度を調整しながらの、晴天時には満天の星空を独り占めしながらの入浴は、なににも代えがたいごちそうである。
虫夢ところ昆虫の家全景
夏休みの恒例事業が、13泊14日の「いきいきオホーツク体験村」である。
昨年の第5回体験村には、韓国からの2人をはじめ、沖縄県など全国各地から26人が参加した。小学4年生から中学3年生までの、自然児候補生たちである。「昆虫の家」には活動で生計を立てる、専属職員はいない。したがって、無償ボランティア・スタッフが、事業運営のすべてを担う。総勢50名の共同生活である。携帯電話は圏外、テレビゲームはない。ただし、子どもたちの様子はほぼリアルタイムで、ホームページで確認できる。
プログラムは、昆虫採集や農業体験、オホーツクやサロマ湖でホタテとの出会いもある。カヌーを漕ぎ、手打ちそばをつくり、ホタルを観察し、川の中で水中生物を見つけ、復元した竪穴式住居で眠る。五右衛門風呂用のマキを切り出し、マサカリで断ち割る。16㎞ほどを歩く里山探索では、ヒグマの糞を発見したりするが、その後には温泉が待っている。
かつて吉野小学校で使われていたであろうグランドピアノから、韓国の音楽が流れている。子どもたちは、自分でしなければならないことのすべてをこなし、日々輝きに満ちていく。
「失敗を恐れるな。失敗を生かして、次にうまくやればいいんだから」「五感を磨け」「人の話はきちんと聞け」などなど、スタッフのパワフルな声が響く。叱るときには叱る、笑うときには笑う、ほめるときには全身でほめる。かつての地域は、誰の子どもであっても容赦をしない、そんな怖いおじさんやおばさんたちで、路地裏にはたくさんの真情があふれていた。私たちの時代は、どこに大きな忘れ物をしてしまったのだろうか。
オホーツクの大自然を満喫
昨年、NPO自然体験村は地域づくり総務大臣表彰など、いくつもの大きな賞に輝いた。しかし、リーダーたちにはおごりはない。
事業の後の酒宴で、「青少年と中堅世代とお年寄りの3世代が、協働できるようなコミュニケーションハウスを建てないか」などという、虫けらたちの夢物語が、熱く語られるだけである。
NPOを支える会員は、およそ400人。全国各地の「昆虫の家」の賛同者が、1口5千円の年会費で支える。
しかし、施設の環境整備をはじめ、週末ごとの自然体験事業、ホームページの更新、そしてNPO組織の舞台回しなど、現地で汗を流すボランティア・スタッフの数は、決して十分とはいえない。
ただ、どんなに困難な状況にあっても、いつも笑顔を絶やさないリーダーたちの姿からは、かつての滝沢の「自然に手伝ってあげたくなるような」オーラを発しつつあるように思われる。企業の社会貢献活動の申し出も増えていると聞く。団塊の世代の出番も近い。
常呂町は、来年3月に合併が予定されている。常呂町という自治体の名称が消える。
しかし、かつて司馬遼太郎が「世界一のいい場所」と記した地域が、子どもたちにとっての「夢の場所」であり続けるためにも、虫けらたちの夢の重さに思いをはせる、そんな時間をこそ、大切にしていきたいものである。
満天の星空を仰ぎながら。