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印刷用ページを表示する 掲載日:2017年4月17日

長崎県時津町長 吉田 義德

 

初めて会う人、久しぶりに会う人から「時津は元気がありますね」とか「活気がありますね」とかよく言われる。

時津町は、長崎市の北部に隣接する、人口約3万人、面積21㎢のコンパクトな町である。

昭和41年頃から始まった公有水面埋め立て地に、企業や大型商業施設が数多く進出し、町内を走る2本の国道は常に渋滞している。

特に、長崎市と佐世保市を結ぶ国道206号線は、朝夕の通勤通学、日中の近隣市町からの買い物客等で1日の交通量が4万台を超えていて、そう言われる由縁となっている。

私が役場に就職したのは昭和44年、最初の埋立が竣工した頃だが、当時は人口が約12,500人、田園風景が広がる町であった。

しかし、埋め立て地等への企業の進出により、人口は昭和55年には、約20,400人と急激に増加していった。

水源に乏しい我が町は、切実な水不足に陥り、隔日制限給水を余儀なくされ、ダム建設の計画が持ち出されていたが、強固な反対に遭い遅々として進まなかった。

そのため、昭和53年にダム室が新設され、室長と私の2人が配属された。このダム計画は、同時に2つのダムを造るというもので、町が事業主体となる水道専用ダムと長崎県が事業主体となる多目的ダムであったが、用地取得は町が委託されていたため、毎晩用地交渉、地元振興協議会との話し合いに明け暮れた。

特に、多目的ダムの反対派の玄関には、「ダム関係者の立ち入りお断り」の大きな木札が掲げてあり、玄関を開け声をかけると、家の中から「木札を下げていただろうが」と怒鳴られ、「暗くて見えませんでした」と言うと更に怒られたこともあった。

しかし、怒られても怒られても何回も行くうちに、だんだん話もできるようになり殆どの家で座って話ができるようになった。時には、焼酎で割ったビールを勧められ、酒に弱い私は閉口した事を思い出す。

実に、様々な思い出はあるが、水道専用ダムは昭和57年に完成、多目的ダムも昭和59年に完成した。

多目的ダムの用地交渉が終わったすぐ後、昭和57年7月、長崎大水害が発生、時津町も2級河川が決壊し、大きな被害を受けたが、これまた強固な反対で進展していなかった中央地区の区画整理事業が、一気に進展するきっかけとなった。

この区画整理事業にあわせ、にわかに公共下水道事業も施行することになり、昭和58年4月私はたった一人下水道係に配属された。

本町では、公共下水道事業の経験は無く、事業の進め方が全くわからなかったが、20日間の下水道事業団認可コースを受講し、その年の夏、町内全域の住民説明会を延べ22回、企業説明会を1回実施し、翌年都市計画決定及び下水道事業認可となった。

その後、昭和62年5月浄化センター建設に着手し、平成3年3月供用を開始した。

私は10年間下水道に携わったが、当初は事業計画の作成や使用料、受益者負担金等をどう定めるかといった各種条例・規則の制定に、工事に入ると地下数メートルの推進工事で思わぬ地下水や硬い岩に悩まされたこともよくあった。

しかし、ダムと比べ下水道事業の地区説明会は、「早くやってくれ」とどの地区からも供用開始を待ち望まれた。

現在、普及率は96%を超えており、殆どの町民が恩恵を受けている。

私は、事務職員として採用されたが、この後も都市計画課長、建設部長と事業部門が長かった。

職員として約39年、副町長4年、2期目の現任期を終えると51年、半世紀以上時津町にお世話になる。

先日、夕食時に妻が私の顔をじっと見て「年取ったねー。皺も増えて深くなった。」と言った。

年を取ろうが、皺が増えようが、少子高齢・人口減少社会にあって、いかに地域を活性化し子供から高齢者まで「住みたい町」「住み続けたい町」と思えるまちにするか、町民の力も借りながら進めている。

とりわけ、新たに始めた総事業費126億円の区画整理事業の促進、交通渋滞の解消、医療・介護費用の抑制にも繋がる高齢者の健康づくりに重点的に取り組んでいる。