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逆境に学ぶ

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年7月11日

徳島県町村会長・藍住町長 石川 智能

 

♪阿波の北方 起き上がり小法師 
 寝たと思うたら 早起きた…

これは藍づくりに従事した人たちが、仕事の疲れを癒すために口ずさんだ、いわゆる作業唄の一節です。悠久の流れ吉野川は、別名を四国三郎と称し、板東太郎(利根川)、 筑紫次郎(筑後川)とともに日本三大暴れ川の一つに数えられるなど、昔から氾濫を繰り返し流域の人々を苦しめてきました。

一方で、この氾濫こそが自然の客土をもたらし、肥沃な大地、徳島平野を育んできたのです。

そして、私たちの祖先はここに着目して元来、連作に適さない藍の栽培を始めました。また、藍作は稲作と異なり、真夏には収穫を終えてしまうので、台風襲来による被害の心配もありませんでした。 このように一石二鳥とはいえ、文献から藍の栽培は「暑さと害虫との闘いだった」と伝えられるほど、その作業に従事する人々は過酷極まりない労働を強いられたのです。冒頭の作業唄は、 寝る間を惜しんで(与えられず)藍づくりに励んだ往時の人々の苦労が偲ばれる反面、ハンディを逆手にとってプラスに転換した先人のしたたかさや知恵に、 今の私たちに課せられた行政の原点を見るような気がします。

特に本町を中心とする吉野川河口一帯で生産される藍は「阿波藍」と呼ばれ、他地方の「地藍」よりも品質が良く、全国的に認められて高値で取引されました。明治期になって化学染料の輸入により、 藍産業は衰退し、いま町内には藍で富を成した豪商の屋敷は散見できるのみとなりましたが、近年は、再び本物志向の気運が高まりつつあることに喜んでいます。

このように本町の歴史は「藍」と深く関わり、今も町名にその文字を冠していることを誇りにしています。

昭和30年に藍園村と住吉村の合併により藍住町が誕生して早や60年が経ちました。合併当時、私は小学校3年生のいたずら盛りでした。見渡す限り田園が広がる純農村地帯で、 神社や吉野川が子どもたちの格好の遊び場でした。その時代は学校にプールがなく、夏休みになると先生や親たちの目を盗んで遊泳禁止の吉野川で泳いだり、魚釣りをしたりしたものです。 近くの神社で友達と木登りや、昆虫採集をしたことも懐かしい思い出となっています。

そんな藍住町にも都市化の波が押し寄せます。それまでの企業誘致や住宅政策、さらには高度成長の波に乗って昭和40年代後半から人口が急増しました。その後も教育、 福祉施設のほか各種の社会基盤の整備充実に力を注いだことが功を奏し、昨年の国勢調査(速報値)では3万4,629人に達し、合併時の人口1万人の約3.5倍、四国の町村では最も人口の多い町として、 今も成長を続けています。

私は東京で4年間の大学生活を送り、民間企業への就職も内定していたのですが、長男であることや古里への思い断ち難く、昭和44年、卒業と同時に帰郷、家業の石油販売業の後継者となりました。

たまたま祖父が合併前の藍園村議会議員、父が町議会議員でしたので、その背中を見て育ったこともあり、次第に町政への関心を深めるようになりました。

町議会議員を経て町長選に出馬、平成13年に初当選を果たして現在4期目となります。町長就任直後は、町税の減収や交付税の減額などで苦境に立たされましたが、逆境を克服した先人の知恵と工夫に倣ならい、 国の求める集中改革プランに先がけ、本町独自の行財政改革に踏み切りました。この結果、改革に手応えを得たことから、合併に頼らず自立の道を選択し、今日に至っています。

もとより行財政改革成功の影には、町議会の協力や職員の涙ぐましい努力があったことは紛れもない事実ですが、何よりも町民の理解と支えがあったことに感謝をしています。

こうした中、一昨年に日本創生会議が発表した2040年の人口推計には、大きな衝撃を受けた一人ですが、このほど策定した本町の人口ビジョンでは、平成31年の人口を敢えて3万6千人台に、 それ以降もこの人口を維持することを目標に掲げたところです。高いハードルではありますが、『地方の活力こそ日本の元気』を全国に発信したいと考えています。

そして、『町づくりは人づくりから、人づくりは教育から』の理念のもと、さらなる子育て支援や教育、文化の振興に努め『心豊かな人間づくり』を目指した町政運営を進める覚悟をしているところです。