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「住みたい」「住み続けたい」「住んで良かった」 幸福度日本一のまちづくりをめざして

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年2月22日

「住みたい」「住み続けたい」「住んで良かった」
幸福度日本一のまちづくりをめざして

長崎県長与町長 吉田 愼一

長与町の祖は、武蔵国(現埼玉県)長井氏といわれ、元々は東武士でありましたが、平家の軍勢に敗れます。その後紆余曲折を経て、鎌倉から室町時代には長与の地頭職を務めていたように文献には記されています。 その後は大村藩に所属し明治まで続きます。人物としては、「長与専斎」がいます。江戸末期、緒方洪庵の「適塾」で福沢諭吉に続いての塾長を務め、ポンペに師事し西洋医学の発展に貢献します。 大村藩医としても活躍し「衛生」という言葉をつくり東京医学校長を務めた人物でもあります。

長与町は長崎市の北部に位置し、北は大村湾に面し面積約28k㎡、人口は約4万3千人で人口規模としては県下最大のまちで、住民の大半が第三次産業に携わる“長崎市のベッドタウン”です。

特筆すべきは、町内には幼稚園・保育所から高校、高等技術専門学校、さらには県立大学まであり、 他町では見られないほど充実した教育環境が整備されていることです。「教育」「文化」「スポーツ」が盛んで今後とも“学園都市構想”の実現に向けて取り組んでまいります。

また町内には四つのJR長崎本線の駅と、整えられたバス路線や航路などを持ち、町民の通勤、通学、買い物などの足として一役買っています。

220年の歴史を持つ全国的にも有名な「みかん」栽培が、まちの基幹農業の一つで、遠く関東、北陸を中心に美味しさで高い評価を頂いております。 漁業は主に大村湾で、「ナマコ」「イイダコ」「シャコ」などが取れます。

昭和30年代頃までの長与町は、人口7千人程度の小さな農村でした。平地には田んぼ。山肌には「みかん」畑。町の中心部を流れる長与川は大村湾に注ぎ、 民家は山麓に張り付くように萱葺き屋根を主に造られていました。

当時の長崎本線は長与経由一本でしたので、普通列車や貨物・急行・特急列車などが頻繁に通い、主に「蒸気機関車」で運行されておりました。

それが変わっていったのは昭和40年代に入ってからです。長与町は長崎市に隣接し、JRなどの交通機関が整備されていたこともあり、ベッドタウンとしての存在感が高まったのです。 田んぼと山々だけの農村だからこそ開発は進めやすく、当時の高度経済成長の波にも乗り「区画整理」事業をはじめ「上下水道」の整備、「団地」造成などが矢継ぎ早に実施されていったのです。 インフラ整備が進みますと住みやすいまちとして人気度もさらに高まり、学校や民家が次々と建っていきました。そして人口は4万人を超すまでに至ったのです。 今でも組合施行の区画整理事業を主体にまちづくりは進められており、人口はわずかですが増え続けています。しかしベッドタウンとして成長してきたまちは、 基幹産業や企業が育ちにくかった分「少子化」と「高齢化」の波は避けられず、重くのしかかってきます。課題としては現在進められている「まちづくり」のなかで、 ショッピングモールの誘致や雇用の促進など更なる魅力アップによって若者たちを取り込んでいくことです。そのためにも隣接する市や町と連携を深め、互いの個性を伸ばしつつ知恵を出し合い、 協力しながら厚みのある行政を進めていくことが一層求められます。

私は町長就任以来、町民とのふれ合いのための「ほっとミーティング」を続けております。これは、自治会やサークルサロン・各種団体を直接訪ね、意見交換や交流を図るもので、17回を数えます。 忌憚のないご意見をいただくことができ、何よりも互いの親しみが深まった気がしております。 これからも、「住みたい」「住み続けたい」「住んで良かった」“幸福度日本一のまちづくり”を目指して町政に取り組んでまいります。