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「都会」と「故郷」

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年5月25日

大分県玖珠町長 朝倉 浩平

 

高度成長期以降、全国の地方自治体、特に山間部の町村では人口が減少し続けています。私も昭和40年の春、地元の高校を卒業してこの町を出て行きました。玖珠町で生まれ育ちましたが、 高校時代の3年間は私の人生の原点と思っています。

高校2年生の時、舟木一男の「高校三年生」が流行り、翌年には東京オリンピックが開催され、日本は当に高度成長期に入らんとしていました。

高校を卒業後、予備校そして大学に進学し、都会の生活に憧れ、東京で証券会社に勤め、バブル期には資産運用会社でファンドマネージャーの仕事をしていました。

東京は文化、芸術、医療等の全てが揃い、刺激的で魅力的だと思います。若者を引き付ける何かがあります。高齢者にとってもそれなりに便利な所だと思います。私自身は仕事して、 家族を守りながら東京での生活をエンジョイできたと思っています。しかしフローの生活に流され真の心豊かな生活が出来ていたかは疑問が残ります。

両親が玖珠に住んでいたという事もあるかもしれませんが、頭の片隅には常に生まれ故郷玖珠の事を思っていました。休暇が取れると、両親が亡くなっても度々帰省し、友と語らい心を癒し、 鋭気を養って東京に戻っていました。

東京での生活に疲れたわけではありませんが、50歳を過ぎるころから定年後は必ず生まれ故郷に帰り、農業をすると心に決めていました。

田舎は正直に申しまして不便なところがあります。そして煩わしい部分もあります。しかし心を癒してくれる何かがあります。都会で感じる事が出来ない静かな音、匂いがあります。 それは肌で感じられる四季の移り変わり、春は沈丁花、菜の花、秋は金木犀、澄んだ空、山々、川、土かもしれません。

都会に住んでいる頃は空を見上げる事が無く、常に前や周りを見て何かを追い求めていたような気がします。そして何かに追い立てられているようでした。

玖珠町は空がきれいです。特に冬の夜空の星は息を飲みこむ程きれいです。

そのような故郷へ今から5年数か月前(平成22年1月)、44年ぶりに帰ってきました。

昨年1月に2期目の挑戦をして玖珠町長として仕事をさせて頂いています。

現在の玖珠町は昭和30年に森町、玖珠町、北山田村、八幡村が合併し現在に至っています。

大分県西部に位置して伐株山、万年山、岩扇山等の山々に囲まれ、町の中央部に玖珠川が貫流し農林業を主産業とした中山間地の町です。

昭和40年の玖珠町の人口は約25,500人、高齢化率12.5%、町内の小学校は18校で生徒数は3,409人で映画館も2つあり、かつては駅前通も人通りが多かったと記憶しています。

平成26年12月末現在人口は16,665人、高齢化率は32%と長寿社会になっています。小学校も8校、生徒数は771人まで激減しています。中学校も平成30年頃までには現在ある7校を1校に統合する予定です。 いまだ人口減少に歯止めがかかりません。全国の中山間地の自治体は同じ悩みを抱えていると思います。

2次、3次産業はあまりありません。しかし、都会とは別の可能性はあります。ICT、交通網も発達し情報収集も都会と大きな格差はありません。田舎には若い人が働ける場所が無いとよく言われますが、 私は常々その事については疑問を感じています。可能性の一つは農業でないかと思っています。日本農業は危機に直面していると言われていますが、農業には多くの企業が参入してきています。 そこにはビジネスチャンスがあるからです。

玖珠町での企業参入の一例を紹介します。

ある大手企業が本社機能を玖珠町に置き、糖度の高いトマトを生産する為の会社を設立する予定で、既に大分県知事立ち合いの下、調印式も終了しました。

少しずつですが若手で農業を目指す人が増えつつあります。そのような人たちに行政として如何なるお手伝いが出来るかです。子育て、 教育環境を充実して若者が定住出来るシステムをつくれば持続可能な町になっていくと思います。

玖珠町には自然の豊かさ、安らぎ、可能性があります。多くの若者や定年を迎え玖珠町で新たな人生を過ごす人を待っています。