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自然と史跡を活かすまちづくり

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年1月26日

石川県宝達志水町長 津田 達

 

宝達志水町は、能登半島の入口にある人口約14,000人、面積111平方㎞、平野部40%、山間部60%、自然豊かで人情細やかなまちです。

東は、能登半島の最高峰「宝達山」(標高は、東京スカイツリーより3m高く637m)があり、西は、日本海に面し、砂浜を車で走れる日本で唯一の、 なぎさドライブウェイ(今浜海岸、出浜海岸、柳瀬海岸)があります。

平成17年3月、志雄町と押水町が合併して誕生した町で、この3月は、合併10周年を迎える記念すべき月に当たります。

町の主産業は、農林業でありますが、海、山、文化財を活かしたまちづくりに取り組んでいます。

海は遠浅で、夏場は車を横付けにして海水浴を楽しむことができ、阪神・中京・関東からも多くの人々が訪れます。

山は、宝達山山頂公園に休憩施設「山の龍宮城」があり、頂上からの眺望が良く、加越能3州(昔の国名、加賀、越中、能登)が見渡せること、夕日や漁火が綺麗なこと、春の山菜採り、 秋の渡りをする蝶のマーキング、自転車によるヒルクライム大会、等で多くの人が訪れております。

文化財は、国や石川県指定の重要文化財のほか、町指定のものも多くあり、その一つに県指定文化財の史跡「末森城跡」があります。

末森城は、宝達山から北西に派生した広陵先端部にあり、加賀、越中、能登を結ぶ要衝の地にあります。

天正12年、末森城で富山城主佐々成正(徳川家康派)と金沢城主前田利家(豊臣秀吉派)が末森城で戦いました。

この合戦で前田利家が勝利し、越中を手に入れ、加賀、能登、越中の大名としての地位を得、加賀百万石の礎となった末森合戦が行われた末森城跡です。

また、十村役を務めた二つの旧家があります。

加賀藩は、慶長9年(1604年)、地方の有力農民に「十村」という特権を与え、年貢の取り立て、藩の法令の公布、人の移動や管理など、農村全体の管理・監督を命じました。

かねてから信頼の厚い有力農民が徴税にあたるため、農民の抵抗感が少なく、安定した税収を得ることができ、藩政の安定化に大きな効力を発揮しました。

「十村」の一つは、国指定の重要文化財「喜多家」、もう一つは、県指定の重要文化財「岡部家」です。いずれも、町が所有して、一般開放しています。

また、国指定史跡「散田金谷古墳」は、明治36年に最初の調査が行われ、鉄製の武具、馬具などが見つかっています。

この古墳は、6世紀後半・古墳時代末期に築造された高さ4.7mの円墳で、内部には全国にも類例の少ない家形石棺が収められています。

伝説の森・三ツ子塚古墳群、モーゼの墓は、旧約聖書の「十戒」で知られる紀元前13世紀の人物(生没年不詳)のものといわれています。

神ヤハウェ(エホバ)の命を受け、エジプトの奴隷状態にあったヘブライ人を脱出させ、カナンの地に導く途中、シナイ山で「十戒」を授けられました。

モーゼは、シナイ山に登った後、何と天の浮船に乗り、能登宝達に到達、三ツ子塚に葬られたと言い伝えられています。

一説では、モーゼは、何と583歳の超人的な天寿を全うしたともいわれています。

また、史跡には指定されておりませんが、加賀藩の重要な財源を生み出した宝達金山の採鉱跡が幾つも残っています。

天正年間に、加賀藩の直営となり、金の採掘は江戸時代前期まで続いています。

宝達志水町には、名所・旧跡の文化財が沢山ありますが、未整備のものも多々あります。

文化財の整備も、まちおこしの重要な事業であると思って順次取り組んでいますが、時間と費用を要するのが悩みの種です。

この3月14日に北陸新幹線が金沢開業いたします。

金沢を訪れる観光客の皆様には、是非、能登半島の入口の町・宝達志水町へもお越し頂きますよう心からお待ちしております。