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自然と歴史、文化が織りなす「高取町」

印刷用ページを表示する 掲載日:2013年10月21日

奈良県町村会長 奈良県高取町長  植村 家忠

 

高取町は、日本の古代史のふるさと・飛鳥地方に位置し、古墳時代から飛鳥時代の貴重な遺跡が数多く残っており、飛鳥時代には、大陸からの渡来人たちがもたらした新しい文化が栄えたところです。

古来、渡来系氏族の「東漢氏」と「波多氏」が勢力を誇っていた高取は、東漢氏によって大陸の文化や情報が伝えられ、飛鳥時代の先端技術都市として発展しました。

中世になり、南北朝時代の豪族「越智氏」によって高取城が築城されました。そして近世、豊臣秀長の指示を受けた「本多氏」が入城し、高取山山頂に城郭だけでなく城下町を作り、城郭都市として整備されました。

江戸時代には「植村氏」が藩主となり、高取藩・2万5千石の城下町として栄えました。

■観光の町・高取「国史跡・高取城跡」

「巽高取 雪かとみれば 雪でござらぬ 土佐の城」

大和平野から見あげれば、山上にそびえる城壁が雪かと見間違うほどだったといわれた高取城は、高取山(標高584m)の山頂に築かれた山城です。

当時は天然の険しさを利用した簡素な城でしたが、天正13年(1585年)本多正俊が入城し、大改修が行われました。石垣を築き、土塀を巡らせ、本丸に大小の天守閣や多門を連ね、 多くの櫓を配置するなど、近世的城郭として整備されました。本多氏の後、譜代大名の植村家政が入城し、明治四年(1871年)の廃藩置県まで、14代にわたって植村氏の居城でした。

現在、ほとんどの建物が取り壊されましたが、本丸・二の丸跡の大規模な石垣が往時の栄華を忍ばせています。麓の城下町とともに、明治時代まで続いた山城としては貴重な一例とされます。

「高取城」は美濃岩村城・備中松山城とともに“日本三大山城”といわれ、平成18年に“日本百名城”に認定されました。

■薬の町・高取「大和の薬売り」

“大名の薬売り”の名を高めてきた「薬業」 わたしたちは、地場産業である薬業の基盤をさらに強化するとともに、まちに新しい力を吹き込んでいきます。

高取町は昔から薬産業が栄えた町で、薬とのつながりは古く、遠く万葉の時代にさかのぼります。もともと薬となる動植物が多く生息していたことから、 飛鳥時代には宮廷行事の一つとして「薬猟」が華やかに行われていたそうです。

江戸時代には、すでに伊勢街道沿いに売薬が始められ「大和の薬売り」として親しまれました。

今も製薬産業や家庭配置薬業は、「薬の町」の伝統を受け継ぐ高取の主要産業です。

■高取町の新しい「まちづくり」

「人と人」「人とまち」が関わることで、昔から継承されてきた「歴史や文化」は、さらに未来へとつながっていきます。

高取町では、ボランティア団体やNPO法人が中心となって、まちの価値を再発見し、歴史や文化を育てていこうという「新しいまちづくり」に積極的にチャレンジしています。

「町家の雛めぐり」や「たかとり城まつり」など、一年を通して町を活気づけるイベントが次々と催され、町おこしのための計画を地域をあげて実行していこうという動きが高まりつつあります。

このように、古代から中世~近世~現代にかけて、時代の流れとともに発展を重ねてきた高取町は今、自分たちの「まち」を見直し、ただ守るだけでなく、 住民が主体となって「自然や歴史・文化を育てる」ことを目標に、さまざまな「まちづくり」に取り組んでいます。 そして未来へ……先人から受け継いだ個性と魅力ある「高取のまち」を次代へ伝えていこうとしています。