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私が子供だった頃と利根川

印刷用ページを表示する 掲載日:2013年3月25日

群馬県玉村町長 貫井 孝道

 

我 玉村町は、利根川・烏川と2大河川が町の中を流れています。ですから私達子供は、ごく自然にこの河川によって育てられました。

玉村町の子供達にとって、この2大河川は自分たちの庭の一部でどう関わり、どう生きてきたかが私たちの歴史でもあります。

私は2大河川の一つ利根川のすぐ近くで生まれ、そして育ちました。利根川とともに育ったと言っても過言ではありません。

この私と利根川との関わりを振り返り、子供のときの生活を語ってみたいと思います。

私にとって利根川の河原は、自分の庭でありました。

冬の日曜日の朝、いつも遊んでいる近所の子供達6~7名が集まって来ます。前日の夕方、ガキ大将のⅠちゃんから「明日は弁当を持って集合」と言われ、 ポケットに餅を入れて集まってきたのです。Ⅰちゃんが皆に向かって「餅持ってきたか」と聞きます。皆「ウン」と言って頷きます。これが我々の日常語なのです。

「じゃあ行くぞ」とⅠちゃんを先頭に2列縦隊となって、利根川に向かって500m位歩きます。我々の胸の内は、利根川での遊びの期待でワクワクしています。

河原に到着すると、2手に分かれ、木の枝を使って小さい木刀を作ります。そしてチャンバラです。お互いの陣地の取り合いをします。

昼頃になると腹が減ってきます。ガキ大将のⅠちゃんが「昼飯にしよう」と言います。

皆は2手に分かれて遊んでいたのをやめ、一緒に昼飯の準備です。

まず枯れ木を集めて火をつけ餅を焼くのです。なかなかうまく焼くことが出来ません。黒焦げや生の餅だったり大変です。

しかし誰も不満を言うでなく食べてしまいます。大勢で食べるという事と、腹が減っているためです。そして水分は河原の清水が湧いている所へ移動し、皆が並んで 首を出して水を飲む、この姿がとても滑稽です。

午後3時頃になると、そろそろ陽が落ちてくるのであまり寒くならない内に、又、隊列を組んで帰路に着きます。

冬の日曜日の一日が終わります。

川岸に張っていた薄い氷が解け初めました。春がもう間近です。

山の雪解け水を受け、利根川の水量が日毎に増加してきます。

我々子供達は河原の枯れ草を焼きます。これが又、とても面白い遊びです。特に寒い日は体がとても温かくなり、火遊びの面白さもあって皆熱中します。

枯れ草の燃え跡に新緑の芽が伸びてきます。

春を感じる心が思わず弾んでくる瞬間です。

子供達は心うきうき張り切ります。

なずな、つくし、タンポポ等、これらの野草を手に持って家に帰ります。各々が家で飼っている動物(ウサギ・ヤギなど)の餌にします。

ウサギを大きくし、売ります。それが小遣いになります。

出来るだけ高値で売ることで、我々の小遣いが多くなるわけです。

4月に入り桜の咲く頃、河原の樹木は新緑に染まってきます。

山の雪解け水で増水し、川幅が徐々に広がってきます。

Ⅰちゃんを先頭に子供達は、裸足になってズボンをまくり、水の中に入り小魚(ハヨ、鮎、ギュギュッタ)を追いかけますが簡単には捕まりません。魚の方が水の中では 動きが良いのです。

冷たい水の中では短時間で足が痛くなり、岸に飛び上がります。

そして、足をさすって暖めます。

一日一日暖かくなる春の日は次の日曜日が楽しみです。

朝、Ⅰちゃんを先頭にいつものメンバーが集まります。前日Ⅰちゃんから、あすは弁当持って来るようにと話があったので、皆、ポケットの中にむすび3個程度を 忍ばせています。各々の服のポケットは丸く膨らんでいます。

いつもの様に河原に到着。雪解け水のため、川幅がとても広くなっていて、水の流れの速さもいつもと違います。

向う岸にも5~6名の子供の姿があります。顔は、はっきりわかりませんが同じ年齢位の小学生と思います。

誰か一人が向う岸に向かって石を投げました。すると向う岸からもこちらに向かって石が投げられます。しかし川幅がある為、届くことはありません。 川の中程の流れの中に「ドボン」と音を立てて落ちてしまいます。

絶対に相手に当たる事はないのです。

石の投げ合いが始まります。罵声を上げて相手をののしり合います。

お互いに疲れが出た頃、自然に終了となり、向い合った岸から少し離れます。

この様に、この時期、向う側に子供がいると必ずこの状態になります。別に向う岸の人たちが憎い訳でも嫌いな訳でもない、なんと言うか一つの挨拶みたいなものなのです。

昼時腹が減ってきたので弁当を食べるときがきました。皆の顔に満面の笑みが広がります。円くなって座り、一斉にむすびをむさぼります。

3個位簡単に食べます。おかずは沢庵か梅干です。でもとってもうまい。これがとても不思議でした。

その後、私が高校・社会人野球選手として活躍出来たのは、この頃の石の投げ合いで肩が強くなって、体が投げる術を覚えたのが原因のように思います。

夏の利根川の河原が一年の内で最も賑わうシーズンとなります。

河原が玉村町の海水浴場の様に変貌します。学校も夏休みに入ります。

この時期、12時から午後3時頃まで町中から、この河原へ水遊びにやって来ます。

もちろん我々も昼飯を食べた後に毎日のように河原に集まります。

私達は利根川を対岸へ泳いで渡るというハードルがあります。

いつの日かきっと、その時期を待っています。

平均的には小学校3年生の頃がその時期です。これを成し遂げると一人前のスイマーと認められます。

私も3年生の時そのチャンスがめぐって来ました。前日から緊張です。当日はなんともいえない気持ちで河原へ行きます。

周りの人達はもう経験済みですから、平常心です。その人達に混ざって対岸へ向かって泳ぎます。

川幅は、かなり広いのですが、もしもの時はその人達が助けてくれるのです。スタートしました。私は懸命に手足をばたつかせ流れに乗り、顔を水中に沈め岸に向かって 泳ぎました。何分後かわかりませんが(多分7~8分程度)顔を上げて岸に着きました。この瞬間の感動は今でもおぼろげに、よみがえります。こうして私達は利根川を征服した 感激に浸ります。

利根川は賑わいますが、夏は農家の仕事が忙しく、手伝いが大変です。水遊びの後の手伝いは体がだるくなり非常に苦痛でした。

蚕の桑積み、牛馬のための草刈が私達子供の仕事です。仕事が終了し、長い夏の一日が終ります。

夏の水泳のシーズンが終ろうとしています。そろそろ秋です。

利根川が静かになってきました。

又、利根川の河原が自分たちの元に戻ってきたという気持ちになります。子供達だけで河原で思いっきり遊ぶのだと誰もが思っていました。

この時期台風が近づいてきます。台風は風と雨と暑い空気を南から届けてくれます。強い雨により利根川は増水し、急流となります。

この急流の川の流れが弱いところで泳ぐのがとても面白いのです。

なぜかというと、魚たちも流れの弱い岸の近くに集まって来る訳ですから子供達と魚たちがこの川で一緒に泳ぐことになります。

鯰・鰻・ギュギュッタ等沢山の魚が集まってきます。

この魚達が泳いでいる私達の腹に当たります。なんともいえない不思議な気持ちになります。

多分魚たちも同じ仲間と思って安心して泳いでいるのです。

もちろん私達も魚達と友達です。普段から利根川で遊んでいるからであり、子供心に、この地域の利根川と、いつも一体である証だと思っています。

利根川に育てられた私達、元気に大人になりました。

この川に教えられたことは沢山あります。その一つは、自然の中で感じる空気の移ろい、自分を大切にすると同時に、他人やいろいろのものを大切にすると言うことでした。

私が子供の頃は、大人は仕事が忙しく、子供は元気に野山を飛び回って遊んでいられた時代でした。

台風の来ている急流の川で泳いだり、野焼きをしたり、今でしたら大変な事です。まだ河原の近くに家等なく田畑は手入れが行き届いていた時代だから野焼きも許されていた のかもしれません。

現在、利根川の土手はサイクリング道路が整備され、サイクリングや散歩を沢山の人が楽しんでいます。

私も時間のある限り散歩して季節の移り変わりを楽しんでいる1人です。玉村町の素晴しい自然や文化を、子供や孫達に引き継いでいくこと、いじめ問題、自殺、不登校等、 子供達を取り巻く環境は日々厳しくなっていく今日、私達大人が、どのように子供達を守っていくか、町長として、真正面から取り組んでいく覚悟です。