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かけがえのない人たち

印刷用ページを表示する 掲載日:2013年3月4日

福岡県桂川町長 井上 利一

 

原稿の依頼を受け承諾はしたものの、内容については正直迷いました。町の紹介や取組み等を考えましたが、個人的に想うところを綴ることにしました。

私は、いつの頃からか『一隅を照らす』という言葉を大切にしています。分をわきまえ自分に与えられたことを精一杯やり遂げることが、ひと隅でも明るく 照らすことになると信じているからです。そして、その広がりは人との出会いや出来事との遭遇によって、大きな変化をもたらすものだと思っています。

昭和24年、山あいの小さな集落に生まれ、育ち、5年間ほど農業に従事した後、地元の町役場に就職しましたが、この時の動機は、町の公民館職員との出会いでした。 笑われると思いますが「世の中にこんな仕事もあるんだ」と初めて知った次第です。

桂川町の人口は約1万5千人、面積は20平方キロです。仕事を通していろいろな人との出会いがありましたが、大きな転機は30年前の町長選挙でした。「若い頃に一度は 選挙に係わったがいい」という先輩の言葉を真に受けて飛び込み、奮闘しました。恥ずかしい話ですが、その中で知り合った友人に感化され、ようやく「町づくり」が自分の 仕事であると思えるようになりました。

それから5年後、町制施行50周年記念事業の協議の席で、企画調整課の係長であった私は、自ら進んで担当を申し出たことを記憶しています。準備を進める中での町長との やり取りは今でも忘れません。「どのくらい経費がいるか?」「5千万円くらいでは・・」「5千万円もかけられるか?」「では3千万円ではどうでしょうか」 「・・・よかろう!」

1年間の記念事業を遂行するにあたって、夜眠れないことが何度もありましたが、多くの方々の協力のもとに成功裡に終えたことは、大きな自信になり、物事に対する見方が 変わっていったように思います。その時埋めたタイムカプセルは、50年後の開封を待って静かに時を刻んでいますが、残念でならないのは、時の町長が50周年記念事業を 迎えることなく、58歳の若さで急死されたことです。友人との親交はその後も続き、かけがえのない存在になりましたが、その友人も54歳で他界しました。

二人との出会いがなかったら、今の私はありません。

時が流れて、合併問題に遭遇。平成14年当初は「話だけの世界」という甘い認識のまま、周辺2市8町の合併協議会に参加しました。しかし、段々と現実的になると町議会が 反対を表明し、町長も離脱やむなしと判断。本町だけが町政を継続することとなり、他の9市町は合併して飯塚市と嘉麻市に分かれました。このことに不満を持った住民が 町議会に対するリコール運動を起こし、議会は解散し町長も辞職、出直しの同日選挙が平成17年1月に執行されました。当時、私は総務課長であり合併協議会の幹事を務めて いたため、異様な雰囲気の中での業務は大変でした。そして、この経験は「町」という存在を改めて考える機会になりました。

選挙後も、行政・議会・住民間は疑心暗鬼が続き、「桂川町の住民であることが恥ずかしい」と言う人が出てくる状況でした。長年、町役場に勤めてきた者として、 はがゆい思いを重ねながら、何とか町政を立て直すことが自分の使命であると考えたものです。

平成18年11月、町長不信任案可決に伴う出直し同日選挙が再び執行されたのを機に立候補し当選、現在に至っています。その時、私を支えていただいた方々には、 幾重に感謝しても足りることはありません。

人との出会いや直面した出来事を想う時、その一つ一つに不思議な「縁」や「絆」を感じます。この先、どんな人との出会いがあり、どんな出来事に遭遇するか、 楽しみであり不安もありますが、本町の町づくりの基本理念である『文化の薫り高い心豊かな町』を目指して、日々、邁進したいと常々思っているところです。