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エルトゥールル号(先人の偉業を後世に伝える為に)

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年12月10日

エルトゥールル号(先人の偉業を後世に伝える為に)

和歌山県串本町長 田嶋 勝正

我が串本町は和歌山県の一番南、本州の最南端に位置しております。大阪から電車で3時間、県庁から2時間と都心部からはかなり離れていますが、その分美しい自然が 残りまた気候も温暖で、年間平均気温が17度と大変過ごしやすい町であります。一つ難点を言うならば夏から秋口にかけて必ずと言って良いほど襲来する台風です。 この地域は昔から台風銀座とも言われ2つ台風が発生すると1つは必ずと言って良いほど紀伊半島に上陸し、当町にもこれまで甚大な被害がもたらされて来ました。

1890年9月16日、今から122年前に起こった海難事故もその1つでした。明治天皇に謁見し帰途に就く途中、トルコの軍艦エルトゥールル号が折からの暴風雨にあおられ、 紀伊大島(串本町)の樫野崎にて座礁・沈没し司令官であるオスマン・パシャ提督以下587名の乗組員が遭難し帰らぬ人となりました。この事故は今も日本の海難事故史上最大と言われています。

今、トルコは世界有数の親日国です。その理由の1つが当時の村民の献身的な救援活動にありました。嵐の中、漂着した傷だらけの外国人に驚きながらも「挙村一致協力、 日夜寝食を忘れ奔走」(明治23年9月19日 東京日日新聞号外より)村民は、海岸に打ち上げられた傷だらけの遭難者をロープで自分の身体に縛り付け40メートルの崖を 登り救護所に運び込み、また海水に浸かって冷えきった彼らの身体を衣服を脱いで抱きしめ、自らの体温で温めました。そのうえ当時貴重な食料であった畑の芋や 非常食用のニワトリを惜しみなく供出し負傷者に分け与えたのでした。その甲斐あって69名の命を救う事ができたのです。この寝食を忘れ行った救援活動が高く評価され、 いつからか「串本は日本とトルコとの友好の発祥の地」と言われるようになりました。

この話にはまた後日談があります。助かった69名が無事日本の軍艦、比叡・金剛でトルコの当時の首都、イスタンブールに送り届けられた後、トルコ国より 和歌山県知事に一通の手紙が送られて来ました。書かれていた内容は救援活動に要した諸々のお金をトルコ国へ請求して下さいと言うものでした。

その時に村民が送り返した手紙の写しが、地元の寺、無量寺から12年程前110年の時を経て発見され、そこには、「本日、閣下より薬價(やっか)・施術料の精算書を 調成して進達すべき旨の通牒(つうちょう)を本村役場より得たり。然れども不肖、素より薬價・施術料を請求するの念なく、唯唯 負傷者の惨憺(さんたん)を憫 察(びんさつ)し、ひたすら救助一途の惻隠心(そくいんしん)より拮据(きっきょ)従事せし事 故(ゆえ) 其の薬價治術料は該遭難者へ義捐致し度候間 此の段  宜敷く御取り計らい下さりたく候也」(一部抜粋)と3人の医者の連名で文章が綴られていました。

私たちは正直その内容を見て驚きました。けして裕福ではなかったはずの村医を始めとする村民達が「元からお金を請求するつもりはない。ただただ痛ましく哀れに思い 行った事。そのお金は遭難した人々に施してあげて頂きたい。」と返信していたのです。この地に生まれこの地に育った者として先人の利他の心に感動すると共に、 明治時代を生きた人々の気骨な精神を感じました。

この不幸な出来事は122年前我が地方で起こりましたが、100年120年前を生きた日本人であるならば如何なる地域でこのような事故が起ころうとも同じ行動を取ったで あろうと思います。

串本町では月命日の毎月16日に慰霊碑へ献花を行い、5年毎に駐日トルコ大使始め関係者の方々をお招きし追悼式典を行っております。その目的は587名の殉難将士の 御霊に哀悼の意を表すと共に、この史実を後世に受け継いでいくことにあります。特に未来を担う子ども達にこの史実を伝えていきたいとの考えから教科書出版社への 働きかけを行っており、昨年育鵬社から出版された「13歳からの道徳教科書」、来年啓林館から出版される高等学校英語教科書「ランドマーク」にもこのエルトゥールル号 事件が取り上げられています。

私たちはこれからもこの先人の偉業・利他の心を、当地域の誇れる歴史として大切に語り継いでいきたいと考えています。