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無限を拓く

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年10月29日

岩手県岩手町長 民部田 幾夫

 

うららかな春風が野山をわたるころ、薄紅い色の五弁の花を開く「さくら」は、私たち日本人が最も愛する花の一つではないでしょうか。

その名を冠したチーム「さくらジャパン」、ホッケー女子日本代表のメンバーにこの夏、ロンドンを舞台にはつらつとプレーをする本町出身の一人の若きプレーヤーを見い出すことができました。

このチーム最年少、岩手町出身の田中泉樹選手(山梨学院大2年)は、オリンピックという世界の大舞台で、途中出場ながらゲームの要となるミッドフィルダーとして、 1次リーグと順位決定戦の全試合に出場。持ち前のスピードで世界の強豪を相手に、全力で駆け抜けました。

オリンピック期間中は、町内でパブリックビューイングを行ったところ、会場には大勢の町民らが詰め掛け、遠く離れたふるさとから田中選手に熱い声援を送りました。 町民は田中選手から大きな勇気とたくさんの感動をもらうとともに、田中選手の今後のさらなる活躍を願ったところです。

かつて本町からは、日本サッカー界の重鎮ともいわれた故工藤孝一氏(旧川口村出身)が、昭和11年のベルリンオリンピックに日本サッカーチームのコーチとして参加いたしました。 その後70年あまりの歳月を経て、2008年北京オリンピックにおいて小澤みさき選手(現グラクソ・スミスクライン主将)が、選手としては岩手町初となるオリンピック出場を果たしました。

当時、私は、地元町村会の機関紙への寄稿文に、成長著しい日本ホッケーチームの活躍から近い将来、本町から初のオリンピック選手を輩出することを確信する旨の記述をしたことが ありました。その期待が時をおかず実現したことに、大きな喜びを感じたことがつい昨日のように思い起こされます。

さて、このホッケーと岩手町とのかかわりは、本町がホッケー競技の会場となった、昭和45年の岩手国体からのことです。

当時、私は地元沼宮内高校野球部の一員として、チームメートとともに練習に汗を流す毎日を送っておりましたが、急きょ創部されたホッケー部の学友たちが、地元優勝の思いを胸に秘め、 ハードなトレーニングにいそしむ姿を目の当たりにするにつけ、自らも大いに意気が上がったことが青春の熱い思いとともに想起されます。友らは、惜しくもこの晴れ舞台での優勝を 逃したものの、「ホッケーのまち岩手町」の確かな礎を築き、後の発展に大いに貢献したことはいうまでもありません。

この岩手国体を機に、その後本町のホッケーは大いに伸長し、児童から成人に至る数多くの大会で、あまたの栄冠を手にしてまいりました。さらには、例年、日本ホッケー界をリードする 選手を日本代表チームのメンバーとして送り出し、世界を舞台に活躍していることは私たち多くの町民の励みでもあります。

そして今や、本町の子供をはじめとした選手たちにとっては、日本代表チームの一員になること、そしてオリンピックに出場することは、はるか遠くに煌めく「夢」ではなく、 誰でもが努力すれば手が届く「目標」に昇華するに至ったといえましょう。

そして、ホッケーに限らず他の競技種目にも効果が及んでいることは、誠に心強い限りです。「努力すれば夢はかなう」。このことを身をもって実践し、証明できること。私は、 これに勝る教育はないであろうと確信いたします。

かつて、政治学を専攻していた学生時代に、恩師から「有限の中に無限を拓く」という言葉を授かりました。今なお自らの政治理念としているものですが、北緯四十度に位置する 小さなまちにあって、こうしたホッケーの隆盛があることは、その理念の実現を目の当たりにした思いであります。

もちろん、この背景には、町民一人ひとりに脈々と受け継がれる「町づくりは人づくり」の伝統の下、ホッケーを「町技」として位置付け、育んできた多くの関係者各位と、 町民皆さんの絶えざるご努力があったからこそであります。

「夢はかなう」。このことを町民の皆様より教えていただいた幸甚を胸に、新たな夢の実現に邁進してまいります。