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わが町 田尻町

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年6月4日

大阪府田尻町長 原 明美

 

昨年の3月11日、14時46分に発生した東日本大震災とそれに伴い発生した大津波。

その日私は、発足したばかりの田尻町文化協会が主催した展示会の後片づけを終え、帰宅しテレビのスイッチを入れたとたん、 信じられない光景を目の当たりにすることとなりました。死者・行方不明者が1万9千人弱という甚大な被害の始まりでした。 現在もこの震災に起因する原発をめぐる問題、今なお続く余震、そしていまだ収束のめどが見えない厳しい現実を見るにつれ、 胸が締め付けられる思いであります。あらためて被災された方々に心よりお見舞いを申し上げますとともに、今後も被災地のことを 忘れることなく引き続き支援に取り組んでまいりたいと思います。この大震災以降、海に面した本町におきましても、災害の対応の 在り方についての議論を今まで以上に重ねているところでございます。

さて、私は昨年12月に町長に就任いたしました。議員経験も行政経験もございません。PTA連絡協議会の会長や、文化協会を 立ち上げ初代会長に就任するなど、常に外から行政に係わってきました。しかし、人生何が起こるかわかりません。今は逆に行政の 中心に立っています。立場は変われども、女性の視点を活かした「未来へ向かう田尻町へ」をスローガンに、行政を変えていきたいと 思っています。例えば防災も女性の立場から見れば、違う発想が生まれてくるはずです。今後様々な角度、視点から見直しを進めて まいりたいと考えております。

少し田尻町を紹介させていただきます。本町は大阪府の南部に位置し、大阪湾に面した本土部分と対岸に位置する関西国際空港の 一部からなり、面積は5.24k㎡、人口約8300人、降雨量が少なく温暖な瀬戸内式気候で、人も穏やかでとても暮らしやすい小さな町です。

田尻町の南をとおり西側から大阪湾に注ぐ樫井川の右岸には条里制の跡があり、古くから開発が進んでいた土地柄であることが うかがえます。

さて、近代の田尻町を支えた産業の柱は、タマネギ生産と紡績業です。

明治18年(1885年)ごろ本町で始まったタマネギ栽培は、試行錯誤をくり返しながら広がり、明治36年(1903年)に大阪で開催 された第5回内国勧業博覧会には本町から多数出品され、高く評価されるまでになりました。田尻町はわが国のタマネギ生産の中心地 のひとつとなり、全国的なブランドとして展開していきます。大正2年(1913年)には、本町のタマネギ栽培に貢献した先人を称える ための「顕彰碑」(泉州球葱栽培之祖碑)が、春日神社の裏地に建てられています。

大正時代に入ると、紡績業が著しく発展しました。「綿の王」と呼ばれ、関西繊維業界の中枢を担った大阪合同紡績社長 谷口房蔵氏は、大正3年(1914年)、郷土である本町に吉見紡織株式会社を設立します。また大正11年(1922年)には工場に近接して 別邸を建てました。洋館と和館が棟続きのめずらしい建物で、大阪府指定有形文化財に選ばれています。現在は、田尻歴史館 (愛称:愛らんどハウス)として町が所有し歴史文化の啓発と継承に取り組み、平成18年には指定管理者制度を導入し、館内の レストランでは多くの人々に往時の栄華を味わっていただいております。

そして、平成6年(1994年)9月に関西国際空港が開港し、平成9年(1997年)には、国際交流基金関西国際センターも開設され、 田尻町は世界に拓く町となりました。また、海に拓く町として、たじり海洋交流センター(田尻漁港)を拠点とした観光漁業や 日曜朝市は、たくさんの人でにぎわっております。

小さな町ですが、急激に変化する経済、社会情勢に対応し、タマネギ、紡績、空港など時代とともに町は発展してきました。

来年、平成25年(2013年)5月には町制施行60周年を迎えます。今後も「ひとが輝き 安心、温もり、魅力あるまち・たじり」 のキャッチフレーズのもと、これまでの町の発展の歩みをしっかりと受け継ぎつつ、住民との協働のもと、さらなる発展を目指し 取り組んでまいります。