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お宝発見「野木町煉瓦窯」

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年5月14日

栃木県野木町長 真瀬 宏子

栃木県の最南端に位置する野木町は、駅周辺の住宅街とそのまわりののどかな田園とが程よく調和した静かな町です。東京への通勤圈であり、ベッドタウン的な町でもあります。面積30・25.と栃木県では一番小さな町ですが、その中で、あらゆる資源を発掘し、町民共有の財産にしていこうと、「小さくてもキラリと光る町」をキャッチフレーズに町の中の隠れた資源(人物、自然、歴史)、宝物を探しているところです。

そのような折、町には明治時代に建造された国指定重要文化財「旧下野煉化製造会社煉瓦窯」(現在通称「野木町煉瓦窯」)がひっそりと残っていることに気がつきました。周辺1万㎡の敷地と共に町に寄付されたまま、調査修復途中で放置されていることを知り、何とか一策を講じなければと思いました、この煉瓦窯は、ドイツ人技師ホフマン氏が設計した正十六角形の輪窯で、明治23年6月に完成し、昭和46年まで80年間稼働していました。当時は近くの遊水地から粘土を、思川から砂を舟で運び、月間40万8千個と大量の煉瓦を生産していました。この窯は、煉瓦造りの窯の上に木骨トラスのトタン葺き小屋組が乗っており、国内で唯一ホフマン式プロトタイプの美しい形が残ったものです。現存する窯の中で、きっと誰もが「日本一」と認めるホフマン窯だと思います。町の宝で す。

煉瓦窯の保存にあたっては、色々ないきさつもありましたが、議員全員の賛成で修復基金もたちあがり、多くのご芳志が集まってきていることに感謝致します。中学生による「1円募金」など、大きなビニール袋いっぱいの1円玉のボリュームには特にびっくりさせられましたが、募金にまつわる人々の工夫、苦心、思いに感動するばかりです。

また町民自らの手によって「煉瓦窯を愛する会」が立ち上がり、現在史実調査、修復工事の記録等、ある部分では行政を越える程の熱き思いで研究、研修を進めています。煉瓦窯公開日には案内説明員にもなって下さいました。今後の活躍に大いに期待したいと思います。会員の皆さんの煉瓦窯への思いは強く、自主的なプレゼン用のプロモーションビデオの製作等、実に楽しそうに活動されています。また町では今「花と煉瓦の町」をアピールしようと素材の発見にも努めていますが、旧役場跡地に残っていた煉瓦蔵もこの度やっと展示館としてよみがえりました。嬉しい限りです。

また全国には赤煉瓦ネットワークが広がっており、明治、大正時代の煉瓦建造物をこよなく愛する人たちが情報の交換を行っていて、様々な人達が立場を越え保全活用に努力していらっしゃいます。煉瓦には郷愁をそそるノスタルジーがあり、最盛期ではなくなってしまったからこそ大切にしたい気持ちが膨らむのでしょう。古煉瓦の味わいは煉瓦自体が物語る深い歴史を感じさせ、その時代その地域の個性を作りあげているのかもしれません。舞鶴、小樽の建造物、横浜の赤煉瓦倉庫、東京駅等挙げればきりがありませんが日本全土に広がっています。私も大学時代は赤煉瓦造りの研究室で過ごしたのを思い出しますが、今でも一部が保存されていて、懐かしさでいっぱいになります。

野木町としては、今後更に煉瓦窯周辺整備を計画しており、ここに人が集まり、楽しみ憩える空間創出に向かっていきたいと思っています。幸い近くには野木神社や水辺の楽校、渡良瀬遊水地など歴史、文化、自然資源が多く「水と緑と歴史のまちづくりプロジェクト」において検討していますので、地域の皆様の声も取り入れ、近々方向がでると思います。

東日本大震災の後、文化財修理どころではないでしょう、という方もたくさんいらっしゃると思いますが、町としては、余震でゆがみがひどくなった煉瓦窯の修復時期は「今この時」と、全力を挙げております。また、このような時だからこそ、忘れられやすい多くの被災した文化財を修復するため、民間の力も導入出来るよう工夫する必要があります。有形無形によらず地域の文化的資産を育てることは、ひいては地域主権の原資となる地域力の醸成にもなると思います。きっと元気復活の源にもなると信じます。関東大震災、東日本大震災と二度の震災に耐え抜いた貴重な産業遺産が町の観光スポットとなる日を夢見て頑張りたいと思います。震災で被災された各自治体の一日も早い復興を祈念しつつ、今あえて目には見えない文化の大切さも認識したいと思います。