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「日野は良いとこ」

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月13日

滋賀県日野町長 藤澤 直広

「山は鈴鹿よ♪湖(うみ)なら琵琶湖♪なかに花咲く米どころ♪日野は良いとこ♪ほんまにほんに♪」我が町のうた「日野小唄」の一節です。琵琶湖の東に位置する我が町は、人口2万3千人、面積117平方kmの豊かな自然と歴史と文化の町です。郷土の戦国武将「蒲生氏郷(がもううじさと)」は、秀吉に見込まれ、日野6万石から伊勢松阪12万石を経て会津若松92万石の大領を与えられるまで出世しました。氏郷は故郷を大切に思い、松阪でも会津でも「日野町」という地名をつけています。遠い古(いにしえ)の時代から我が町に暮らす人たちは日野という町をこよなく愛してきました。

そんな日野町にも10年前、「平成の大合併」の嵐が吹き荒れました。しかし、一貫して「合併して本当に町は良くなるのか」という思いが町民のなかにありました。国や県が強引に合併を推進するなか、それに抗して住民団体が結成され、「合併の是非を問う住民投票条例の制定を求める直接請求」に2度にわたり取り組まれました。そして、2度とも否決され、最後の手段として町長リコールの運動となり選挙になりました。しかし、もともと住民運動は選挙を目的としたものではないことから候補者選びは難航し、土壇場で住民団体の事務局をしていた私が県職員を辞めて立候補することになりました。

あれから、もうすぐ8年が過ぎようとしています。合併問題の本質は、国や県からの「合併しないとやっていけない」という「脅し」にありましたが、「三位一体改革」は、合併をする・しないにかかわらず自治体財政を危機に陥れました。こうした状況のもと、我が町も「自律のまちづくり」に取り組み、厳しい財政状況を公開し、住民の参画と協働によって対応しました。お陰様で、合併特例債を使わなければ建設できないと言われていた日野中学校の改築を実現し、来年度には中学校給食の実施に向けて施設整備を行うところまで進みました。

また、今年度スタートした第5次日野町総合計画は、40回以上にわたる会議での議論を重ね、住民主導で策定しました。ある公募委員さんが「日野町に嫁いで20年、総合計画の策定に参加して町のことを考え、やっと本当の町民になれました」と感慨深く述べられたことに感動しました。第5次総合計画には「自律のまちづくり」の言葉はありません。もはや当然の概念として町民の皆さんに根付いているからです。

東日本大震災から1年が経過しようとしています。厳寒の折、被災地の皆さんの厳しい状況を思うと心が痛みます。国がもっとしっかりと迅速な対策を講じるべきだと強く思います。一方で、昨年を代表する漢字に苦難をのり越えようという気持ちが込められた「絆」が選ばれました。国民の間に「絆」の大切さが広がっていることは、この国の希望だと思います。そして、そうした社会は顔が見える関係を活かし、地域のコミュニティを大切にし、自分たちの町のことは自分たちで考え行動するという町村自治のめざすところでもあります。

我が町を合併の嵐から守るために足を棒にして署名に歩いた人がいます。「日野に生まれて、日野で暮らし、日野で死ぬ」ことが本望という人がいます。嫁ぎ先から「ふるさとが日野で良かった」と応援してくれる人がいます。「町に対する誇りと愛着」とは、まじめにコツコツと生きる住民がいて、それを包む温かい行政と地域社会があるなかにこそ生まれるのではないかと思います。

当時、「故郷は遠きにありて思うもの」ではなく「近きにありてつくるもの」という言葉に励まされました。そう言ったのは東北の方でした。今、その言葉通りに奮闘しておられる皆さんに心より敬意を表します。そして、避難者の皆さんが一日も早く故郷で暮らせることを願うものです。そして、この国が故郷を大切にする国に、都会も田舎も大きな都市も小さな町村も、そこに住む誰もが幸せになる国になるように力を合わせたいと思います。