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史実に忠実に、地域おこしの核・富岡城

印刷用ページを表示する 掲載日:2011年8月8日

史実に忠実に、地域おこしの核・富岡城

熊本県苓北町長 田嶋章二

苓北町は、熊本県西部、天草下島の西北部に位置し、西は外海の天草灘・東シナ海に面し、北は内海の千々石灘を隔て雲仙岳が望める風光明媚な町です。また、中世から近世にかけて特に江戸時代の270年間、天草の政治・経済・文化の中心として大きな役割を担ってきました。そのシンボル的な富岡城は、熊本城・人吉城などとともに熊本県内5大城郭に数えられる近世城であります。関ヶ原の戦いのあと、唐津の城主・寺沢広高が1602年に築城。1637年の天草・島原の乱では、島子(天草郡有明町)、本渡の戦いで敗走した唐津勢が城に立てこもり、防戦しました。その結果、キリシタン軍は島原の原城へ立てこもりました。

歴史を語るとき「もし、そうであったら」という仮説は許されませんが、天草・島原の乱の一揆勢が富岡城を占領して富岡の地で乱が長期化していたら、その後はどうなっていたでしょう。富岡は外洋に面しており、中世以来、数多くの外国船が出入りし、宣教師たちも上陸しました。外国に開いた富岡での乱の長期化は、対外的にも大きなマイナスです。国内政治の乱れを感じとった列強諸外国が、乱に乗じて日本に攻め込んだかもしれません。

天草・島原の乱は正しかった、富岡城は、幕府の圧政支配の象徴である。乱の鎮圧は悪である―というのが天草の人たちの定評だと思いますが、私の歴史認識は違います。一揆勢がもし富岡城を占領していたら、もし戦闘がかなりの長期戦になっていたら、日本はどうなっていたでしょうか。列強諸外国が、攻め込んで来た結果、東南アジア同様に植民地になっていたかも知れません。皮肉なことに天草・島原の乱以後、徳川政権つまり日本は安定国家となり、その中で日本人の質素・倹約・勤勉性が養われてきました。それに均質的な教育、集団性と技術集積があって、それが明治維新・大正・昭和と引き継がれ戦後の繁栄につながりました。そういった意味において富岡城は、日本の歴史を今に伝えた城、安定政権を生んだ城として意義深いと思います。時代のターニングポイントを担ったふるさとの誇り、富岡城。今、文化財は保存と活用の時代、復元を機に地域おこしの核にしたいと考えて、取り組んでいるところです。

そこで苓北町は、「史実に基づく富岡城復元」を基本理念に掲げて、平成6年度から富岡城跡整備事業に取り組んできました。整備に伴う発掘調査も14年を費やし、櫓は張り子の虎、つまり大きく見せかける工夫を施していることが判明しました。また、復元のカギを握る絵図(国会図書館蔵)が、果たして遺跡・遺構と一致するのか入念かつ慎重な調査をしましたが、本丸の石垣など驚くほど正確な位置に残っています。基本理念どおりの復元は可能だと、確信した次第です。観光が前面に出てくると、どうしても底が浅くなってしまいます。歴史的に意義のある文化遺産を忠実に復元しなければ、だれも目を注いでくれません。なるべく多くの人に富岡城を見て知ってもらいたいと、復元を進めてきました。この後も、大手門から二の丸・三の丸の復元に取り組んで昔の縁を偲びながら、沢山の人々に古き良き時代へ思いをはせて頂きたいと考えています。

これからも、町のシンボル的な存在の富岡城の復元で、町民の皆様方にもふるさとに愛着をもっていただき、歴史の面影をしのびながら憩いの場、都市の人たちとの交流の場を創っていきたいと考えております。