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「本質の思慮」

印刷用ページを表示する 掲載日:2011年4月4日

秋田県美郷町長 松田 知己

春爛漫、桜が身近な時期となった。既に満開を過ぎた地もあれば、未だ蕾の地もあるだろうが、全国津々浦々で酒肴とともに、あるいは心静かに、色と香りを楽しむ様が目に浮かぶ。私ども美郷町にも先人が育んできた桜の名所があるが、きっと今年もいろんなスタイルで春を愛でる催しがあるに違いない。そんなことを思いながら桜の風景を思い起こすと、決まって頭に浮かんでくるのが本居宣長の歌である。「しき嶋のやまとこころを 人とはば 朝日ににほふ 山さくら花」。「朝日ににほふ」という部分がこの歌の核心と思うのだが、この歌の心象風景、そして言葉が持つ余韻にはいつも心がほのぼのとさせられる。改めて「言葉の力」を感ずるとともに、「言葉の本質」ということを考えさせられる。
一方、中年の域に達しているためかどうか分からないが、私には言葉について危惧を覚えることもある。「やばっ」に代表される最近の若者言葉である。正直なところ戸惑わされる。文脈から意味あるいは伝えたいニュアンスは伝わってくるので、意思伝達の役割は果たしているのだが、どうもすっきりとした気分になれない。改めてそのもやもや感を分析してみると、そこにはこれまでの経験から言葉自体や言葉遣いに深みを欲している自分がいる。言葉は発する側の意思を伝え、それを理解させる意味において人と人の心を結ぶ。そしてその人の心は多面多層、だから重厚である。従って言葉には重厚さを認識した深み、言い換えて〝余韻.が欲しいと思っている。若者言葉に触れるにつけ、社会全体で今こそ言葉の本質を考える時期ではないかと思っているところである。しかし、実際そうした本質というものを真剣に考えてみると、これが実に難しいことも分かってくる。思慮の深さに比例して解決の難しい課題が鮮明化してくるからである。
さて、こうした本質について改めて仕事のフィールドで考えてみる。私は大学を卒業してから現在まで、一般職あるいは特別職として行政に携わってきている。25 年程度ではまだまだ短いという見方もあるだろうが、経験を下地に現在の姿を見つめ直してみると、やはり改めて本質を問い直さなければいけない状況が浮かんでくる。そう思う一つの具体例が、有権者受けを強く意識したと思しき施策の増加である。自省も含めて申し上げるが、行政全体の課題を俯瞰して優先順位をつけ、財源を検証しながら効果を見通す作業をやや置き去りにした施策が増えてきているように思えてならない。とりわけ国の施策にその傾向が伺えるのは政権交代の所産だけが理由だろうか。さらにこの傾向が作られてきたものなのか、作ってきたものなのかの分析も非常に大切である。さてどちらだろうか。
思慮の行き着くところは、有権者意識とガバナンス意識、そしてナショナルミニマムとリージョナルミニマムの明確化、さらには行政の理想の共有化というところだが、現実を踏まえると考えなくても分かるくらい難しい課題である。しかし、難しいからと言って放置もできない。ダーウィンの進化論ではないが、与えられた環境に適応する方向で進化することが仮に社会事象にも適用されるならば、この傾向で現在の環境が継続していった場合、必然的に有権者や行政に一定の方向が予見されるからである。だからこそ私は、自らの努力を一義と認識しながらも町村会活動に期待をしている。住民との距離が近いからこそ、実感の伴った本質論を深められると思うからである。また、何らかの実践活動を点ではなく、面として展開できる可能性があるからである。
私は今年も美しい郷の桜花のもとに足を運ぶが、物言わぬ桜の木々はこんな思索も静かに受け止め、明日に繋がる力を私に与えてくれるだろうと思っている。
(※復興、みんなでがんばろう!)