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慎太郎が広めた柚子とフランス芸術の香りが融合する村「北川村」

印刷用ページを表示する 掲載日:2011年2月14日

高知県北川村長 大寺正芳

北川村は、高知県東部に位置し、村のほぼ中央部を南下する奈半利川を挟み東西17㎞南北33㎞にわたり面積は196.91平方㎞を占める地域です。気候は、温暖で雨量に恵まれ、上流域では年間雨量が4,000~5,000㎜に達します。集落は、海抜20m~300mに点在します。また、村政は、明治32年に施行され町村合併をすることなく現在に至っています。人口は、昭和36年に6,000人を超えた時もありましたが、過疎化が進み、現在では約1,360人となっています。
村の95%が山林であり、概ねその50%を占める国有林の木材を搬出するために森林鉄道が敷設され、本年で丁度100年になります。当時、森林鉄道では1日1便客車が運行され、流域の住民にも利用されており、「運賃は無料であったが命の保証は無かった」と長老に聞いた覚えがあります。昭和33年森林鉄道は撤去され、自動車道に替わりましたが、トンネルや橋の一部が当時の面影を残したまま、道路として使われていて、一昨年国の重要文化財に指定され、地域の観光資源となるよう取り組んでいます。
大河ドラマ龍馬伝で話題となった坂本龍馬の盟友・中岡慎太郎は、北川村で生まれ育った人物です。中岡慎太郎は村人に柚子の栽培を奨励したと伝えられ、その柚子は、今では全国有数の産地となっており、村の一次産業を支えております。
この柚子の新たな展開として、柚子ワインを生産するワイナリー誘致を行いましたが、バブルの崩壊により進出企業から白紙撤回の通知が届き、村は事業の再構築をしなければならなくなり、急遽プロジェクトチームを結成。(財)地域活性化センターアドバイザーの協力も得て、新たな展開を模索し、生まれたものが「北川村モネの庭マルモッタン」です。
モネの庭との出会いは、再構築した事業・フラワーガーデン構想の中で、柚子とワインの交わりからフランス文化の香り「芸術」と北川村の「豊かな自然と光」をミックスした事に起因します。そこから連想できたものは「印象派の画家たち」、中でもクロード・モネは浮世絵の影響を受け、絵を描くために自ら庭を造り、その庭は、自然志向が強く、光と影が巧く合致し、大衆に受け入れられる素地は十分にあると結論に達しました。そこで、とにかく観る、間違いないと信じたならば正面から門を叩くと覚悟を決め、相手方と話が出来るか否かも判らないまま、前例のないフランス渡航を決行させました。
最初、依頼を拒否していたクロード・モネ財団庭園責任者ジルベール・ヴァエ氏も、日本で再現したいので協力して頂けないかと熱意をもって説いた願いに応えてくれ、彼が書き上げた図面とアドバイスを下さり小さな交流が始まりました。その後、クロード・モネ財団元理事長(故)ヴァン・デル・ケンプの承認により財団として協力いただけることになりました。
公園の整備工事は順調に進み、完成を半年後に控えた1999年10月「名前をどうするのか」という問題が生じ、フランス国美術界最高機関最高責任者アーノルド・ドートリヴ氏に面会、「北川村モネの庭マルモッタン」の名前を頂きました。この名前にあるマルモッタンは、モネの絵画を世界で最も多く所蔵されている美術館の名前です。
翌2000年4月、ドートリヴ氏をはじめ駐日フランス大使外大勢の関係者列席のもと盛大に開園式典を催すことが出来ました。式典においてドートリヴ氏は、「ジヴェルニー(セーヌ川の右岸に位置し、モネがその晩年に居を構え、連作「睡蓮」を制作した場所)には本物の絵は展示しておりません。しかし、庭は彼が残した偉大な芸術であります。北川村の庭も本物の絵は必要ないでしょう。本物の庭を大切に育ててください。」との言葉を残されました。その後、再来村した際にドートリヴ氏にはモネの庭友の会名誉会長にも就任いただいております。
そして、2010年4月駐日フランス大使、モネの庭館長、陶芸家児島塊太郎氏、日本画家平松礼二氏外多くの皆様をお迎えし、開園10周年を迎えることが出来ました。これも一重にここに掲げさせて頂きました方々のほかオルセー美術館学芸長シルヴィー・パタン女史、マルモッタン美術館前館長(故)ジャン・マリ・グラニエ氏など多くの方の熱い支援があってのことと感謝しております。これを機に、更に、絆を深めるとともに交流を続けます。
このように、北川村は、中岡慎太郎が広めた柚子をはじめ一次産業の振興、モネの庭、中岡慎太郎館、重要文化財に指定された森林鉄道等々、観光・産業・芸術を育て、前進して参りたいと思っております。