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 愛する村よ、永遠に

印刷用ページを表示する 掲載日:2010年12月20日

長野県原村長 清水澄

原村は八ヶ岳西麓の標高1,000m内外に展開する村です。近在で一番遅く開発免許状が下された新田村で、400年の歴史浅い村です。それ以前は「神野(こうや)」と呼ばれる諏訪明神の御狩場で、一面薄の茂る痩野だったと言われます。  
その昔、武田信玄に端を発するところの金鶏金山に働く九州渡来の金掘技能集団は、年々減少する産出量に悩み、付近に入植して百姓になることを目論みました。金山から眺める八ヶ岳西麓に毎年雪の早く消える地を見て、温暖を信じたといいます。来て見ればそれは雪も積らない程に寒風吹き荒ぶ荒野でした。  
ですから、人々はただただ働くことのみを美徳として、何物にも挫けず今日の肥沃な田畑を生み出し、村を作り上げて来たということは、少年時代に折にふれて長老から聞かされた話でした。  
脇目も振らずに働かなければ生きていけなかったし、条件の整っている先発村には追い付けなかったのです。それでも〝遅れた村”と見られることは致し方のないことでした。人々は村に依拠し、結束と忍耐で良く働く村と言われることを誇りに、村を作り上げて来たのです。私自身の子供時代を思い返してみても、1個の労働力の役目を果たし、厳しく働くのは普通のことでした。勉強は学校でだけやるものでしたし、それでも豊かな自然に恵まれて、心身共に健やかに成長できたのでした。 
自然発生的な集落の8ケ新田が集まって原村を結成したのが明治8年、135年前のことです。戦後の食糧難時代の開拓集落や高度経済成長期のペンション村、リゾート地域等を加え、一度も合併することなく今日に及んでいますが、これも本村の格段に強い結束力の表われではなかったかと思います。
本村は近年人口が増える村として注目を浴びています。ご多聞にもれず本村も戦後のベビーブームを経て人口が減少し始め、昭和50年に最低を記録しました。しかし、その後増加に転じ最近は年間50人程度のペースで増加するようになりました。特段人口を集めるような企業がある訳ではないのですが、自然環境の良さと住民福祉の施策が魅力となっているのではないでしょうか。昨年度は80人程の増加で、増加率1.05%、県下人口増加9市町村中の第一位でした。  
本村は農業が盛んで、八ヶ岳山麓の乾燥冷涼な気候を利用しての夏場のセロリ―は、全国一の産出量を誇り、全国各地で原村を食して戴いています。また高原の強い日光は花卉の発色を良くし、人々の生活に潤いを与えて愛用を戴いており、感謝に堪えないところです。今後更なる農業の振興を期して取り組んでいるところです。  
後発村としての封建時代の長い歴史の中から本村の村民性は培われ、勤勉、忍耐、団結、協調性、自尊心等となって、表われて来ています。近年の村の発展、成長は村を誇り、愛する気持ちを更に強くしています。先人が村を開いて以来400年の労苦に思いを至し、今日があることを感謝するところから、原村の福祉は始まりました。先人の夢見た〝遅れていない良い村”を作ること。これが今の私の信条となっています。
「幸せな生活には健康が第一」との考えに立ち、村を発展させて来た高齢者は言うに及ばず、乳幼児・児童・生徒、障害者、母子・父子家庭、世帯主等の医療費を完全無料化している他、各種健診も無料としています。紙数の関係で詳しくは述べられませんが、他の政策も相俟って今日では〝福祉先進村”と言われるようになりました。お陰様で医療費も県下で掛からなくなり、高齢者が元気で働く市町村のトップとなりました。村を開き、礎を作って来た先人たちも屹度、喜んでくれているものと思います。
「好きで好きで堪らない愛する村よ、永遠に栄あれ」と、今後も村勢発展に邁進していく覚悟です。