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 雑感

印刷用ページを表示する 掲載日:2010年11月8日

岡山県西粟倉村長 道上正寿

早いもので平成11年9月に西粟倉村長に就任して以来三期が終わろうとしています。平成の大合併、財政、分権改革等の将来ビジョンの未完成な議論に翻弄され続けた12年間だったようにも思われます。また、私自身西粟倉で生まれ育ち、あっという間に還暦を迎えて、社会人としての約40年間が一瞬のように感じられます。1950年生まれで学生時代の4年間以外は村で育ち、専業農家として半世紀、21世紀からの10年を村長として夢を追いかけています。  
子供の頃の米作農家は機械化される直前で、田植えから秋の収穫まで家族総動員で手植えをした田植えの光景や秋の収穫での、はで掛けの思い出を忘れることはありません。農繁期には家族の中に子供の役割があって、月明かりでの農作業は子供なりに厳しかったと記憶に鮮明に残っています。ただそれでも当時には親父が将来の思いや夢を語って、優しい家族団らんのひとときがあったと感じています。  
そのような時代を経過しながら、昭和30年代から一気に近代化の時代背景で基盤整備、農薬散布、機械化が進み、合わせて住民への行政サービス、上下水も含めた施設の近代化が同時進行で推進されました。その影響で地域社会でも住民の生活環境は一変して、しばらくの間右肩上がりを前提にした政策が続いて今日に至ったことも事実です。そのおかげで高齢化、過疎対策を旗印に近代化による使い捨ての経済対策が謳歌されて、確かに知らない間に我々田舎の生活も、上下水がつながり、文化ホール、体育館、ナイター付きのグランド等が全国どこでも満喫できるようになり、ある意味で満足度の高い生活だったと感じています。  
ただ、集落で将来の夢を語り農地の集約化にいち早く取り組んだ基盤整備の自己負担の償還が終わりかける、ほとんど同時期に水田耕作意欲が地域から消滅して水田の預かり手さえいないことが実体になろうとしています。また拡大造林で、隣人と競争して植林、下草刈り、枝打ち、間伐をして育てた人工林が樹齢50年になった今、山林内で作業する人影を見ることが難しくなってしまいました。  
私が農業後継者として頑張った30年間、確実に地域の農林業の意欲は衰退して、農業の元気が地域の元気の源からすると、地域社会の存続は極めて厳しい環境です。そんな厳しさでの村長として11年間の在職です。生活環境の変化からすると確かに住民生活の広域化による多様性の選択肢の広がりや低コストの選択肢は大いに賛成で、だからといって中心から50キロも南に下る、人口30,000人の特例過疎合併に賛成できるはずがありません。健全な広域化と低コスト満足社会の仕組みの構築が今の重要課題です。  
中学時代、春先の天然のやまめ釣りの楽しさと、夕飯にあがったヤマメの塩焼きの味  
夏休みでは毎日川に入り、真っ黒に日焼けした背中、昨今の自然と比べると、想像を絶する豊かな生態が河川にあり、今の子供たちに昔の現実を話しても話しても伝わらないもどかしさ、また秋には山に自然薯掘りが日曜日の日課で、芋ご飯は格別だったと記憶しています。  
便利で豊かになった生活を否定するものではありませんが、地域にあった生活や文化、伝統までも根こそぎ変えるような近代化の歩みもまたたくさんの問題を抱えて続けたのではと思ってしまいます。中国や東アジアの経済の台頭でさらに大きな人口規模での市場原理が優先されて、さらに日本では高齢化による人口規模の減少が具体的になり、バブル崩壊後10年と言われてもうすでに20年になり、さらに最近の政治状況は将来不安を感ぜずにはいられません。どのような時代が続くにせよ、小さな村にも住民が住み続けて色々な問題が集約して起こり続けます。国際化、国の問題とは少し離れた地域社会の問題として、地域の小さな将来を提案しながら日々起こる今日の課題を克服していくことが今の行政課題です。  
地域主権が言われる昨今ですが、新しい時代の国と地方の役割が明確になり、地域は地域の身の丈に合った「地域資源をプロデュース」して、地域にあった小さな経済・文化をつくることが地域社会の持続につながると確信してやみません。