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一歩一歩新しい歴史を刻みながら

印刷用ページを表示する 掲載日:2010年10月4日

岐阜県町村会長 八百津町長 赤塚新吾

八百津町は、岐阜県の東南部、長野県木祖村に源を発する木曽川が山岳部を下り濃尾平野に流れ出る分岐点に位置し、海抜120メートル前後の盆地平野部と遠く木曽山系に連なる海抜500~600メートル前後の高原地域とからなり、総面積は128.81平方キロメートル、町域の約80%を山林が占めています。
江戸時代から明治の半ばにかけて木曽川舟運の川湊として発展した旧八百津町を中心に、昭和30年から昭和31年にかけて経済的、行政的に密接な関係のあった近隣6町村が合併して誕生しました。
人口は、合併まもない昭和35年には18,283人を数えましたが、残念ながらその後少子化と若年層の流失により減少し、平成17年の国勢調査では12,935人となっています。
町の産業は、昭和の初期までは農林業と養蚕が中心で、戦後は「せんべい」製造業が急速な伸びを見せ、本町の代表的な地場産業として育ってきました。現在でも全国シェアはおおよそ60%を誇り、安定した需要を持っていますが、売上高の伸びという点では大きな期待はできない状況にあります。近年では、工業団地等への企業誘致により自動車関連の金属製品やプラスチック製品などの工業製品の製造業が主要な産業に取って代わっています。
ところで、先述したように八百津町は、木曽川の流れとともに歩んできた川の町です。豊富な水量を有する木曽川は、明治時代から水力発電の拠点として注目され、明治44年に は現在の中部電力の前身である名古屋電燈によって八百津発電所が建設されるなど、早くから開発が行われました。昭和31年に竣工した丸山ダムは、洪水調節をはじめ治山・治水・発電といった機能をもち、全国に建設が進んだ多目的ダムの先駆的役割を果たしたと言われています。
現在、丸山ダムは洪水調節機能の拡張のため嵩上げが進められています。これが完成すればダムの総貯水容量は東京ドームの約118倍の1億4,635万立方メートル、現在のダムの約1.8倍の容量となり下流に住む人々の暮らしを水害から守る機能が高まります。
また、丸山ダムの嵩上げにともない、本町の東西を結ぶ国道418号の付け替えが進められており、将来は隣接する恵那市への開通により広域交通体系が確立され、交通の行き止まりの町といわれた本町の産業や経済、文化へも新たな波及効果が生まれることが期待されます。今年3月には念願であった新旅足橋が完成し、町の中心部と町の東部に当たる潮南地区を車で15分程度で結ぶ動脈が開通しましたが、さらにこれより以東の恵那市までの早期開通が待たれるところです。
また、本町を紹介するうえで忘れてならないのは「故 杉原千畝氏」です。杉原氏は八百津町出身の元外交官で、第2次世界大戦下にあった旧リトアニア共和国日本領事館の領事代理時代に、ナチス・ドイツの迫害から逃れようとポーランドからリトアニアへ脱出してきたユダヤ人避難民に対し、日本政府の意に反し人道的立場に立ち独断で日本通過ビザを発給し、6千人以上といわれている尊い命を救いました。
杉原氏のこの偉大な遺徳を多くの人々に継承すべく、八百津町では平成6年に氏にちなんだ「人道の丘公園」をオープン、その後の平成12年7月には杉原氏生誕100年を記念して、町が一望できる同公園の一画に「杉原千畝記念館」を建設しました。この記念館には、杉原氏が発給した日本で唯一本物の「命のビザ」を展示しています。また、杉原氏の命日である7月31日前後の一週間を杉原ウィークとして毎年様々なイベントを開催し、八百津町から杉原氏の崇高な精神と世界の平和、命の大切さを発信し続けています。
平成19 年に策定した八百津町の第4次総合計画のテーマは「やさしさとみどりあふれる 活気あるまちやおつ」です。悠久の流れを続ける木曽川のように、町民と一丸となって一歩一歩、この町の新しい歴史を刻んでいきたいと思っています。