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 人生勝負の世界に生かされている

印刷用ページを表示する 掲載日:2010年7月19日

北海道中富良野町長 四方昌夫

最近の風潮なのか、一部の人の考え方なのか判然としないが、勝ち負けをはっきりさせることを嫌う傾向が強くなってきているようだ。
特に義務教育の中では、顕著に現れているのではないだろうか。
私は、この傾向には賛意を表すことはできない。
人間の生涯は、自分の好む、好まざるの関係なく、勝負の世界に生かされていることを、思い出していただきたい。
この世に産声をあげた時に、まず、最初に周りの赤ちゃんとの大きさ、体重の比較に始まり、よちよち歩く時期の比較、保育園や幼稚園でのお遊戯会での優劣など、これらは本人が分からない中でのことである。
少し成長し、小学校の運動会や中学校の体育大会での徒競走の速さ、そして、人生の中では比較的大きな勝負の時期が近づいてくる。それが受験戦争である。高校に始まり、大学入試、就職試験である。
これらは、本人の能力が大きく左右することとなるが、一定の枠の中に入るためには、大変な努力が必要となるのである。
社会人になっても、あらゆる分野で同期との競争、先輩、後輩との軋轢があったり等々、過酷な社会生活を送るのが一般的な人生であると思う。そして第一線を退き、悠々自適の生活が始まると、やがて年とともに知力、能力、体力が衰えて人生の最期を迎える時、家族から、「うちのじいちゃん、隣のじいちゃんより早く(遅く)逝ってしまった。」と、比較されるのである。
このように、人間は生まれた時から死ぬまで、勝ち負けの世界に生かされているのではないだろうか。
少し角度を変えてみよう。
他人から「あなたの趣味は何ですか。」と聞かれたら、多くの人はスポーツ、囲碁、将棋などと答えると思います。これらは、真に勝つか負けるかをはっきりさせるものなのです。その最たるものが、スポーツの祭典、オリンピックではないでしょうか。「オリンピックは勝つだけでなく、参加するためのものである。」との言葉は、現代社会では通用しなくなったような気がいたします。
また、段位を上げるために努力を重ねる、芸能、美術の分野も同様であると思われます。
このように、人生の中で数多くの勝負が行われているのですが、ばくち(賭博)と言うと、多くの人は眉をひそめるかも知れませんが、我々首長は、ばくち打ちの最たる人間であると思います。
何故かと言えば、選挙戦を勝ち抜いて、今の立場があるのです。ばくち(勝負)の嫌いな人は首長にはなれないのであります。
私は、このようなことから、現職についてからは、堂々と勝負事は好きですと、公言してはばからない日々を送っております。勝負事は、体力、気力、能力のバランスが取れてこそ良い方に向かうものであり、行政とも少しは共通するものであるかと思っております。
私には、小学生の孫がおり、孫と接する時に少しずつ勝負の道理、ルール違反は許されないことは勿論のこと、勝つことの大切さ、喜び、充実感、負けた時の悔しさ、悲しさを乗り越える術を教えながら、遊んだりしていますが、時には自分が熱くなったりしております。
もし、これから先、負けたと感じることがあっても、「負けてしまった」と落ち込むのではなく、次にまた頑張ろうと思えるような人間になってほしいと望んでおります。
このように家族とのふれあいを通じて、周りから勝負の世界に生かされていることと、時には、自ら進んで勝負をかけなければならないことがあることを、次の世代に残さなければと思うところであります。