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 空港と歩んだ半世紀

印刷用ページを表示する 掲載日:2010年3月15日

空港と歩んだ半世紀

徳島県町村会長 松茂町長 廣瀬憲発




松茂町は空港の町である。そして、「空と海が輝くみどりの臨空都市」が、わが松茂町の町づくりの理念である。

今から約500年前、吉野川河口に沖積した砂州を拓いたのが、我が町の始まりである。以来、旺盛な開拓精神をもって低湿地帯での水とのたたかいに挑みながら、確かな村づくりを続けてきた。現在、人口15,000人、各次産業が調和的に展開し、町民の所得は県下で最上位である。福祉の町、教育の町を標榜している。

この松茂町の発展の象徴的存在が徳島空港である。

第二次世界大戦の最中、昭和17年4月、松茂村の半分近くの面積を専有して開隊した旧海軍飛行場は、終戦後、滑走路周辺を残して、元の地主や入植者に払い下げられた。代々続いた私の家もこの飛行場開設の区域内にあり、一旦、隣村(現在の徳島市川内町小松)へ移転し、昭和二四年、元の地=「住吉」に還ってきた。

昭和33年、海上自衛隊徳島航空隊が、払い下げた土地の一部を再収用して立地し、開隊した。その再収用の区域内にあった私の家屋敷は再移転を余儀なくされ、滑走路を挟んだ北側=「満穂」へ転居した。昭和36年、私は松茂町職員になった。

徳島空港は、昭和37年、この旧海軍飛行場の跡地に開港した。自衛隊が使用している1,500mの滑走路を持つ徳島飛行場が運輸省告示第378号によって公共飛行場に指定されたのである。

最初に就航したのは38年10月、日東航空の「大阪.徳島.高知」間定期便、コンベア240・40人乗り。続いて、39年8月、日本国内航空「東京.徳島」間定期便。41年10月には、徳島空港ターミナルビルが完成し、空港機能が整備された。

56年8月には、ジェット機の就航に備えて、滑走路を2,.000mに延長する第1次徳島空港拡張事業に着手し、62年4月に完成。翌63年4月に、日本エアシステム「徳島.大阪」間にA300型ジェット機(281人乗り)が就航した。ここでも、我が家が拡張整備工事の区域内に在り、再再移転ということになった。

この事業の展開に当たって、用地買収や騒音問題、移転費用などについて関係者と直接交渉するのは県の担当者であったが、当時、空港問題を担当していた課として、私はよく交渉に同席した。

平成元年から2年にかけて、新徳島空港ターミナルビルと530台収用できる駐車場が完成した。平成6年10月に「徳島.福岡」間、続いて全日空「徳島.東京」間の初就航があり、翌七年には、徳島空港年間利用者100万人突破という朗報を聞くまでになった。

その後は国内経済の状況、高速道路の通行事情の影響で航空機利用客数や貨物の量に著しい変化があり、路線も「徳島.札幌」間、(季節運行)「徳島.名古屋」間の就航、航空会社も全日空の撤退スカイマークエアラインズの参入と撤退と、めまぐるしい動きがあった。特に明石・鳴門架橋ルートの開通によって利用客が激減した「徳島.大阪」間の便が廃止されたことは印象的であった。

第2次徳島飛行場拡張整備事業は、平成13年8月に始まった。

海を埋め立てて2,000mの滑走路を2,500mに延長し、同時に、ターミナルビルの新築、移転、廃棄物処分場、流域下水道処理施設、海浜公園など、周辺整備をする大事業である。

平成14年5月、時の徳島県知事が進行中のこの工事の中止命令を出した。私は地元の町長として、これに抗議し、知事裁定の不当性を訴え、決定を覆らせた。そして、今年4月にめでたく完成する予定である。

これが、私の公職生活と重なる徳島空港の半世紀である。そして、私は今も空港から離れがたく(?)、発着のジェット機が頭をかすめるほどの近くに住んでいる。

今日も、月見ヶ丘海浜公園に遊ぶ子どもたちの未来への希望を乗せたジェット機が、早春の空へ発っていく。・・・松茂の空である。