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 国保への想い

印刷用ページを表示する 掲載日:2009年12月7日

国保への想い

滋賀県高月町長 北村又郎




私は5歳の時に母を亡くしました。妹が2人いますが、下の妹は母の顔を知りません。幼い子供三人と父を残して、子宮筋腫の病で僅か31年の人生を終えました。行く末をどんな思いで見つめながら逝ったのだろう、昭和14年でした。70年も過ぎた今日でも、無性に母への恋しさが込み上げてきます。

私の父もまた、母親と4ヶ月で別れています。年の離れた一番姉が結婚を諦め、父を育てました。その伯母が、母が亡くなる前後、病気で寝たきり状態でした。関節リュウマチとかで、足の膝が悪く、化膿をして、病院の先生と近くの開業医の先生が交互に往診をされていたようです。3年ぐらいの長患いだったそうで、毎年、田圃を一反ほど売って医療費に充てていたようです。

そんな時に母が発病したのです。病気のことはなかなか言い出し難かったのではないかと思います。そのうちに癌性腹膜炎になり、近所の人からは、またおめでたですか、と言われたそうです。百姓をしていましたから、専門医にかかるのは、田植えが終わったら、草取りが終わったら、と延び延びになりました。7月に産婦人科の診療を受け、即手術と言われ、開腹すると余命2ヶ月と言われたそうです。ほどなく9月16日に亡くなりました。

その後、伯母は少し良くなり松葉杖で歩けるようになり、私たちの世話をしてくれましたが、3年余り過ぎて亡くなりました。その後、新しい母が来てくれて、父は死んだ母のことをあまり口にはしなくなったし、私たち兄妹も子ども心に気遣ったのか、話をすることもなく成長しました。

戦後も少し落ちつきかけた昭和26年、私が高校生の時でした。父がある日、私と2人の時に「もしあの頃、保険があったら、お母ちゃん助けられたかもしれん」と、私にポツンと言いました。最初は何の事かもわからないでいたのですが、国民皆保険の必要性を説いてくれました。高校生の私にもよく理解ができました。そして続けて、病気にかかったら少しでも早く医者に診てもらえるように、村で診療所をつくることになったことを教えてくれました。診療所の宿舎にお風呂をつくることができないので、私の家で医師とその家族の入浴を引き受けようと考えていることを打ち明けられました。今から考えますと、五右衛門風呂で、母や妹たちが賛成し難い気持ちはわかりますが、家族が嫌がったら応援せよ、というのが話の結論のように聞こえました。

私には風呂の話よりも「お母ちゃん助けられたかもしれん」と言われたことの方が、強く心を打たれたことを、今も忘れません。

それから10年後の昭和36年に国民皆保険が達成されました。縁 あって、国保連合会や後期高齢者医療と深くかかわりながら、組合立の病院の管理者をさせていただいております。課題の多い医療と保険者の谷間にいながらも、医療保険制度の安定的な存続はもとより、今日の社会保障の危機を、安定した将来へとつなぐ責務を感じております。

このことは、父の願いと響きあうことです。幼いころに母を失い、他の人がされない経験をさせてもらったことを、無駄にしてはならないと自分に言い聞かせながら、老いの身に鞭を打って、持続可能な制度を子孫に残せるように、微力を尽くしています。