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 田んぼを守る

印刷用ページを表示する 掲載日:2009年5月25日

熊本県美里町長 長嶺興也

美里町は、平成16年11月1日、旧中央町、旧砥用町が合併した人口12,000人の町である。熊本県のほぼ中央に位置しているが、山林が75%を占める典型的な中山間地域である。
平成19年に集中豪雨で被災した折、全国各地から激励のお言葉、お見舞い をいただき、感謝申し上げます。

昭和30年代、多くの同級生が京阪神、中京地区へと集団就職をしていった。長男も長女も、次男も三女をもと…日本の高度成長の原動力となって。

この時代、日本の各地で見られた光景ではなかろうか。友人を見送る自分は心の中で「頑張れよ、故郷に錦を飾れよ」と大声で叫んだものである。
 
15歳で親元を離れ、未知の世界で仕事をし、独り立ちして生活をしていかなければいけない同級生たちは、その時、どういう心境だったのだろうか。今、定年を迎え、地元に戻ってきた同級生に聞くこともない。一人自問自答するだけである。

一方でムラに、集落に残る同級生は通学区の15の集落の中で9集落はいなくなってしまった。幸か不幸か残された者が農業に、商業に夢を託して地域を守って、都会の同級生と変わらぬ収益を願い、がんばったものである。農業者は農業構造改善事業でみかんを植えた。それも平成9年には、みかん価格の暴落により町のみかん畑のほとんどが伐採され、杉・ヒノキへの植林あるいは他作物への転換がなされたが、今となっては荒地となり、イノシシ、鹿の住家となっている。

「田んぼ」は減反政策が始まって、農作業の困難な日添え(山の近くで日が当たらない)の田は、減反の第一候補となり、その後は徐々に草、竹、雑木等が生い茂って元の田んぼへの復帰は難しい状態となり、やがては山林に地目変更がなされてきた。
また、農業収益が思うように確保できないことから、離農する農家が目立つようになり、農家は年々少なくなる一方である。これは少ない耕地で生活ができた自給自足の「よき時代」から、物の豊かさを求めた、現金収入を得るためのレールが敷かれた時代に突入したためでもある。

喜んで借りてもらった「田んぼ」が「作り手がいないから」、「圃場整備をしてないから」と返される。誰も耕作をしないと荒れてしまう。この繰り返しである。隣接の田んぼに迷惑をかける。自分の「田んぼ」を守るために、他人の「圃場」を管理せざるを得ない。毎年毎年一人では無理である。そこに集落の力が働いた。
皆で守ろう、残された、選ばれて(?)残った我々で、昔の大地とはいわなくても、必ずやって来る食糧不足にすぐ対応できるようにと!

大地が肥沃な土で覆われ、きれいな 水が沸き出ずる、そんな集落づくりを目指していきたいものである。しかし、一朝一夕に出来るものではない。
国がすばらしい制度を制定してくれた。それが「中山間地域等直接支払制度」である。この制度で、各集落が活性化計画を立案し、「田んぼ」を守る取り組みを始めたのである。

ある地区では、都会の子供たちを招いて交流体験を始めた。田植え・稲刈り等、地区にとっては新しい取り組みだ。地区をあげて「食」の大切さを教えながらもてなしをする。このようなことが「田んぼ」を守る一助となっていることは間違いないことである。

特に高齢化比率の高い本町で、山間地域のハンディキャップを背負いながら、「農地を守る」という意識が芽生え、さらにふるさとを守ってくれる「力」が出てきた。「自分が生まれたこのムラを」と喜びの声を聞くとき、残された一人ひとりが森を育て、水をつくり、大地を守る。そういう集落に「頼むぞ」と大きな声で叫びたい。
自給自足率を上げるためにも、農地保全は必要であるし、山間地の農地の役割は大きく、国土保全・環境保全を担っている。そんな使命を持って日々 の暮らしを続けていけたらと思うものである。