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 ひるまず、焦らず、チャンスをつかむ

印刷用ページを表示する 掲載日:2009年5月11日

広島県世羅町長  山口 寛昭

今年も4月、5月の連休期間中、世羅高原は多くの観光客で賑わいを魅せました。
昭和52年から始まった国営農地開発事業は、世羅町の農業を進化させる大プロジェクト事業として、約20年間の事業期間を要して完成しました。しかし、農業情勢の変化の中で、紆余曲折を繰り返しつつ、平成2年ごろから果樹と花を一体化させた観光農業としての生き残りをかけた農業者の努力がありました。
そしてその取り組みが、現在の世羅高原の花観光として、県内外から大きなスポットが当てられるに至っています。
世羅町の農業の歴史は、「大田庄」と「今高野山」」なくして語ることはできません。
大化の改新の際に、この地域の「郷」などを集めて世羅郡が設けられたとあります。平安時代に入り荘園が興り、備後の中央に位置する「大田庄」として統治されました。
この「大田庄」は、源平のころ平家の領地となり、後白河法皇に続いて紀州高野山に寄進され、この地域は、その政所寺院で今も残る「今高野山龍華寺」を中心に繁栄しました。
現在の国道184号は、石見銀山街道の「銀の道」として注目されていますが、「大田庄」からは年貢米を運ぶ「米の道」として利用されていました。
その当時から、世羅町は主要な米の生産地であり、賑わいのある地域であったと考えられます。

永い歴史の中で育まれた産業としての世羅町の農業は、現在、花観光、梨やブドウなどの果樹、トマト・レタスの「野菜工場」等々。そして、6次産業ネットワークとして「力」を束ね、新たな取り組みに常にチャレンジしています。
このような歴史に学びながら、これからの地域づくりを考えるとき、「ひるまず、焦らず、チャンスをつかむ」ことであると思います。
先人たちが築いた世羅町は、世羅 夢高原として全国に発信し、世羅町ブランドを作り上げようとしています。そこには多くの人々の智恵と努力と勇気が存在し、その力がその時々のチャンスをものにしてきました。
私は、これからの地域づくりを5つの力を束ねるものとして訴えています。
それは「組織力」「教育力」「指導力」「地域力」「自治力」です。これらの力の結集が「人間力」だと考え ています。
今、世羅町の地域では「地域づくりビジョン」が策定されています。それぞれの地域がその個性を活かし、独自の思いで自らの地域は地域の者で創ろうとする機運が芽生えています。

『昨年より今年は地域活動が盛り上がっている』とは、大田地域振興協議会会長の言葉です。
地域づくりには終りがないと言われます。一生涯を通した仕事であり、途中で止めるわけにはいきません。

平安時代から続いた農業が、現在近代的な農業へと変革し、ネットワークという組織として新たな取り組みに発展したように、これからの地域は、5つの力と人間力によって築かなければならないと考えています。

地域づくりは「ひるまず、焦らず、チャンスをつかみ」ながら出来ることから実践するものであると、最近強く思っています。