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 世代交流で夢ある未来を

印刷用ページを表示する 掲載日:2008年10月6日

京都府精華町長  木村 要


京都府の南西端で奈良市に隣接するわがまち精華町は、JR学研都市線や近鉄京都線で大阪・京都の都心部と直結する比較的便利な所にあります。京都・大阪・奈良の三府県にまたがる京阪奈(けいはんな)丘陵の約15,000ヘクタールで建設が進められている「けいはんな学研都市」(関西文化学術研究都市)の中心に位置し、「国立国会図書館関西館」をはじめ、若年者への職業意識啓発を目的とした総合的職業体験施設「私のしごと館」、文化・学術・研究の中核的な交流施設「けいはんなプラザ」、民間の産業をリードする先端的な研究所等々が多数立地しています。
しかしながら、国主導で都市づくりが進められた東の筑波研究学園都市に対し、民間活力導入を旗印にスタートした西のけいはんな学研都市は、政治・経済の動向に左右される厳しい状況のまま今日に至っているというのが実情です。
この都市づくりは、京都大学の元総長・故奥田東先生がオイルショックやその後の世界賢人会議の提起から「21世紀は人口急増により食料・エネルギー不足や環境悪化を招く」と憂い、「これまで日本は欧米の製品をまねて急成長し、米国に次ぐ経済大国になったが、今こそ日本は智恵と技術力で世界に貢献することが求められている。その役割を担うのが、ここ京阪奈丘陵である」と大きな夢を示され、1977年に当時の町長に協力を求められました。私は町議会議員になった直後でもあり、その頃は疑心暗鬼になったことを覚えています。
早いもので、あれから30年が経ちました。まちの人口は当時の2.5倍を超える35,800人となり、農村から都市へ変わろうとしています。2010年には、けいはんな学研都市を構成する奈良市で平城遷都1300年の節目を迎えますが、文化財調査からも精華町が平城京を支えてきた地域のひとつであることは確かです。けいはんな学研都市は再び日本の「文化首都」として甦ることが期待されます。
ところで、テレビや新聞で連日のようにあってはならない事件・事故が報道されています。何故このようなことが起こるのか、これから先どのような社会になっていくのか、極めて不透明であり、先が案じられます。今こそ全体の奉仕者である私たち公務員が職務や職責、コンプライアンスを全うして世に範を示し、国民の理解を得るための努力が厳しく求められています。一方、崩壊した家庭のあり方では、親は親らしくしっかりと子供を育てること、すなわち「三世代が支え合う」ことが大切だと私は主張しています。
私事ではありますが、もともと専業農家であった私は農業青年の組織化に努め、37歳で町議会に送っていただきました。「初心忘るべからず」今もこのことを大切にしています。選挙に出させていただく時に、伯父から「四知(しち)」という中国の後漢書にある言葉の意味を聞かれて答えられず、政治を志す者として失格だと叱られました。「二人の間の秘密でも、天も知り、地も知り、我も知り、相手も知っているから、いつかは他に漏れる。密約はあかん」と教わりました。
それから4年後、お盆の墓参りの時にその伯父が一枚の色紙をくれました。中国書経の瞬帝の言葉で「亮天功」(「天功(てんこう)を亮(たす)く」)と書いてありました。そして「己のことを考えるのではなく、人の幸せのために尽くしなさい。必ず結果が出る」と諭されました。伯父の教えを教訓に今も心しています。
つい2ヶ月程前にある出版社から取材を受けた時に「座右の銘は」と聞かれ、私は「温故知新」と答えました。中学の歴史の授業で「故きを温ねて新しきを知る」と教わったことを覚えていますが、先人の思いや労苦を知り、感謝することで新しい道が拓かれると信じています。
バブル経済の盛期には家の建て替えが各所で進みましたが、私は捨てられていく鬼瓦を見て「もったいない」と収集を始めました。古いものは数百年前の貴重なものもあります。鬼師がかたどった約50個の鬼瓦はわが家の宝であり、私をしっかりと見守ってくれています。