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 郷土料理の巌窟王「しもつかれ」

印刷用ページを表示する 掲載日:2008年5月12日

郷土料理の岩窟王「しもつかれ」

栃木県町村会長・高根沢町長  高橋 克法



我が郷土料理「しもつかれ」ほど、かわいそうなものはない。見た目の醜さ故に、他県から移り住んだ人々からは、
「人間の食べるものではない!」
「駅のホームにこれを撒いたら・・・?」
「ビニール袋に入れて持ち歩かないで!」
などと言われ放題なのである。学校給食でも年に一度は必ず出すのだが、その食べ残したるや、年間ランキングトップの座は動かない。私は密かに「しもつかれ」のことを、郷土料理の岩窟王エドモン・ダンテスと呼んでいる。

「しもつかれ」は節分の後の初午の日に作る。節分でまいた残りの豆を使い、正月に食べた塩鮭の頭、油揚げ、冬の寒さでスが開いた大根とニンジンを鬼オロシ(※)で下ろして加え、大鍋でコトコトと煮込んでいく。最後に酒粕を手でちぎって加え酒粕が溶けたら出来上がりとなる。塩鮭の塩分があるので原則として調味料を使う必要はないが、家々によって醤油や味噌、砂糖を加えるのはもちろん、酒粕の量もちがう。したがって同じ味のしもつかれは存在しない。「福は内、鬼は外」の元気な掛け声が響き終わると、祖母は野菜保存のための室(むろ)から出してきた大根やニンジンを、あかぎれの手でゴシゴシと鬼オロシで下ろし始めたものだった。

私の地元には「しもつかれ」をめぐるこんな話がある。「たんたん田んぼの高根沢」が文字通り「たんたん田んぼ」であった時代の話である。

農家の嫁は辛い。誰よりも早く起き、誰よりも遅く寝る。家事全般、農作業、義父母はもちろん亭主の兄弟の面倒、さらには自分の子供の面倒も見なければならない。当時は子沢山が当たり前だった。

実家の父、母は息災だろうか。まだ幼い弟妹達は元気だろうか。そんな思いが募っても容易に里帰りなどできるわけがない。年の暮れ、いちおうの新年の準備が終わると、一日いや半日だけの短い時間里帰りが許される。手には歳暮の塩引き(塩鮭)。里の両親を前に、
「父上様母上様、お久しぶりでございます。おかげさまで私も今年一年、嫁ぎ先で元気に暮らすことが出来ました。」
と言って歳暮の塩引きを差し出す。手は霜焼けとあかぎれで真っ赤である。娘の苦労は何も言わなくても分かる。手を見ただけで両親は胸がいっぱいになって涙が込み上げてくる。しかしその手を前にしても娘に優しい言葉をかけることは出来ない。優しい言葉を少しでも口にしてしまったら、堰き止めておいた思いを止めることが出来なくなるからだ。ただ心の中で“おまえの母も同じだった。祖母もその前もずっと嫁はそんな手をして生きてきた。耐えろ、耐えるしかないんだ。”と念じるしかなかったのである。

短い里帰りが終わって娘は嫁ぎ先へと帰る。あとに残ったのは娘の持ってきた塩引き。当時塩引きは決して安いものではない。それだけに娘の一年間の苦労の結晶でもあったのだ。それを台所のカマドの上に掛け大切に毎日少しずつ食べる。そして節分の頃、掛けてあった塩引きは頭と背骨と尾っぽだけになる。それを材料にして「しもつかれ」を作る。父と母は、娘の心中を噛み締めながら食べる。声に出して泣きたいくらいの娘への思いに堪えながら食べる。鮭の頭から染み出した塩分はちょうど涙の味がするのだった。

岩窟王「しもつかれ」の過酷な歴史がお分かりいただけたであろうか。然るに近年、この岩窟王が俄かに脚光を浴び始めている。平成十五年、みのもんた氏は氏の番組の中で「しもつかれ」を長寿食として絶賛した。直後に宇都宮市の食品会社には注文が殺到し、生産が追いつかないほどだった。栃木県出身の作曲家船村徹先生は「ご先祖さまが編み出した素晴らしい生活の知恵。栃木弁同様、温かい味がする。栃木の文化の代表だねえ」(下野新聞より)とおっしゃっている。「しもつかれを七軒食べ歩くと中気にならない」「なるべく多くの家のしもつかれを食べると無病息災である」これは古くから伝えられてきた言葉でもある。

本来、命を繋ぐ食物にはそれにかかわった人の数だけ物語があった。我々は食物と一緒にそのドラマをも食べ、生物としての命を繋ぐだけでなく人間にのみ許された「心」をも繋いできたのである。

「食育」とはなにも難しいことではない。食物を物としての栄養素としか捉えない栄養学によって我々が忘れ去ってきてしまったことを、日々の生活の中に取戻せばいいだけなのである。

※鬼オロシとは目の粗い竹製で、普段使っている下ろし金の親分のようなものである。