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 春に寄せて

印刷用ページを表示する 掲載日:2007年4月9日

香川県琴平町長  山下 正臣
四国路春の風物詩と謳われるまでに成長定着した「四国こんぴら歌舞伎大芝居」は本年で23回目の春を迎える。
町村週報に寄稿の機会を戴いて、今日まで取り組んだ「四国こんぴら歌舞伎大芝居」事業を回想することとした。
琴平町は人口10,500人、面積8.46平方キロメートルの小さな町で、先の平成の大合併では合併協議が成立せず、単独で生き残りを賭けることを決定した。
町の生立ちは、こんぴら信仰に始まり、1700年代中期より「讃岐のこんぴらさん」として広く全国より信仰を集め、隆盛を極め、年間300万人の参拝客を迎える信仰と観光の町として発展を遂げた。取り分け、家光以来歴代将軍による朱印状の下符、宮中からの勅願書と日本一社の綸旨など上からの手厚い保護を受け、近隣の藩領、天領の干渉を受けることなく、治外法権の地として、自由で特有の文化を育みながら今日を迎えている。往時の遺産として残され、現存する日本最古の芝居小屋、国指定重要文化財「旧金毘羅大芝居」(通称=金丸座)がその繁栄期を物語っている。
金丸座は1835年(天保6年)に建築され、役者の登竜門として、千両役者が必ず舞台を踏んでいたのである。また、市中に在りながら、火災に遭うこともなく、時代の変遷を見守り続けてきた。余程の強運な小屋であったのだろう。
時は流れ、戦後金丸座は芝居小屋から映画館へと変貌し、テレビ時代の昭和30年代後半には全く使用されることが無くなっていった。昭和45年、江戸の姿を現在に遺し、その建築様式と文化的価値が高く評価され、国の重要文化財指定を受け、現在地に移転復元され、保存することとなった。
昭和58年香川県下では瀬戸大橋工事の進捗と併せて瀬戸大橋時代の受け皿創りへと時代は動いていた。また、観光の動態もニーズの多様化へと動いていた。
当時町議会議員に成り立ての私は、瀬戸大橋時代の捉え方如何が町の将来明暗を分ける、こんぴら参りだけではニーズの多様化時代には対応出来ない、また財源の乏しい弱小の町では大層なことは出来ない等々思案に暮れた。他には出来ない、琴平だけしか出来ない、更に歴史文化という付加価値を加えることの結論を得た。迎えた初議会一般質問で「金丸座の活用と江戸歌舞伎の再現を」訴えた。返ってきた答弁は(予想どおり)、「重要文化財の網が掛っているので活用できない」であった。しかし諦める訳にはいかない。文化庁へも陳情した。返答は「ノー」である。所有手法を模索していた。念ずれば通じる。幸運の道が開いた。昭和59年1本のテレビ番組取材が入った。「すばらしき仲間」というトーク番組で、出演した中村吉右衛門、澤村藤十郎、中村勘九郎の3人の俳優達が現存する江戸時代の芝居小屋の機能に深く感銘して、「是非この舞台で芝居をやろう!」と番組は進んだ。松竹本社、俳優達の協力を得て、文化庁が動いた。実現への道が開いたのである。(後で得た教訓であるが私達は文化庁の所管である建造物課へ陳情を行っていた。松竹が動いたのは地方文化振興課であった。担当課によって考え方が裏表違うのである。)
昭和60年「第1回四国こんぴら歌舞伎大芝居公演」が決定した。3日間(5回)の公演であった。町中が沸いた、町を挙げての事業となって、成功に向けて智恵を出し合った。町中を歌舞伎一色にしよう、情報の発信は中央(東京)から、全国ネットに乗って入場券を販売する等々。多くの先輩達は「こんな田舎に誰が来てくれるか」「もし、赤字を出したらどうするのか」色々意見が交錯した。入場券は発売と同時に完売した。大成功であった。町を挙げての「町おこし」の先駆的事業として数々の表彰を戴いた。
回を重ねて、本年は231年振りに上方歌舞伎の始祖の大名跡を継承した坂田藤十郎丈の登場である。 14日間28回の公演を通じて舞台の感動を全国のファンの皆様に与え続けることを願って止まない次第である。