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 失われゆくものへの哀惜

印刷用ページを表示する 掲載日:2007年3月26日

福岡県小竹町長  山本 康太郎


私の出生は昭和10年、早生れであるから学校は9年組である。この9年組ほど、学制改革の風を真面に受けたものはあるまい。昭和16年、この年、小学校から国民学校へと変ったが、この年に1年生入学、教科書もそれまでとは変って、姉から譲って貰えなかった。12月8日、日米開戦、それまでの日中事変に強敵が加った。経済も戦時統制が強まり、隣近所の青壮年男子は、殆ど野良では見かけなくなった。私は生まれてすぐに、父を病気で失っていたが、同学年の者の父親の方々は、後備役であったが、戦局の悪化と共に召集を受けて出征され、殆どが硫黄島で玉砕された。我が町でも確か6名の方がそうであった。
昭和20年、私共は5年生となっていた。悪天候の日夜を除き、連日連夜の空襲に私共は馴れていたが、沖縄戦の終結と原子爆弾の投下のことを知った。子供心にも精神力ではどうにもならないと感じた。8月15日終戦、12日頃から空襲が極端に少くなっていて、何か違うなと思っていたら、15日正午の玉音放送、続いて国民学校への緊急登校の命令が連絡網を通じてあり、校長先生から、正午の放送ではよく聴取できなかった内容を、明瞭に知らされた。校長先生が「日本は負けたのです。」と云って絶句されたのを覚えている。
中央への米軍の進駐と共に、我々筑豊地区にも、進駐が始った。私共のところは、隣接する直方市に、1個小隊程度の兵士が進駐してきて、それから教科書の改めが始まり、軍国主義的な部分を切取ったり、墨で塗つぶしたりすることとなった。国語の教科書ですら、約3割程度しか残せず、修身、地理、歴史の本は廃棄となり焼却された。算数、理科でも応用問題などで軍事的な傾向のみられるものは、全て削除しなければならなかった。
ただ、修身の本を何故に全部廃棄するのかは、当時は理解できなかった。戦意を昂揚するような内容のものはともかく、友愛などの頁も含まれていたのにである。
戦争に敗れるとはこんなものかと、今ならよく分かる。我が国を無力化したかったのであろうが、日本は時の利を得て、本当に運良く立直り得た。しかし受けた傷も大きかった。後の停滞期が長かったからである。
さて、国民学校6年生のとき、私達は最終の学制改革に遭遇した。義務教育年数が九年間となり、新制度の中学ができ、これに1年生から入学した最初の年代となったことである。国民学校制度は、我々の在学した6年間で終了し、小学校制度となり、以後今日もなおそのまま続いている。
さて、地方自治の現場では今、補完性の原理の基となるいわゆるコミュニティの構築が急がれている。これが遅々として進まないのは、先述の大きな傷によるものではないかと、私は思っている。私共の町は、明治22年に6つの村が合併し、昭和3年に町となったものである。旧長崎往還が中央を通り、お休処附近が街の体裁を持っていただけだったものが、石炭鉱ができ、このお陰で繁栄したところといって良い。農村部は勿論、炭鉱部も連帯意識が強く、いわゆる隣組はかなり強固なものが数多くあった。しかし炭鉱地域は石炭産業の疲弊により、今は人口は割に多いにも係らず、高齢化の進んだ集住地域となっている。しかし、細々とではあるが、旧隣組的活動は、今も続けられている。農村部は相当に力強く、活動していることは申すまでもない。傷というのは、昭和22年政令第15号による解散命令である。勿論、昭和27年にこれは取消し(失効)となったのであるが、何か重苦しい。伝っているものに、上意下達的な性格が強く残っているのも厄介である。しかし失われゆくには、あまりにも惜しい。何とか換骨奪胎を図り、新しい社会の土台とせねばと思って思案中である。