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 合併後のまちづくりに思うこと

印刷用ページを表示する 掲載日:2006年9月11日

広島県安芸太田町長  佐々木 清蔵


安芸太田町は平成16年10月1日、旧加計町、筒賀村、戸河内町が合併して誕生した、広島市の北西部に接する人口8,428人(88月末)、面積342平方キロメートルの町です。その88%は森林で、可住地11.5%といっても一級河川太田川等多くの河川を含んでおり、わずかな土地しかありません。要するに町を縦断している太田川やその支流と森林との間に河岸段丘状に開けた、急峻な地形の町です。
しかし、このような地形であるがゆえに国の特別名勝「三段峡」や県の最高峰「恐羅漢山」など豊かな自然景観に恵まれていますし、アーチ式ダムとしては国内2番目の高さを誇る「温井ダム」、棚田百選に選ばれた「井仁の棚田」などの観光地も多くあります。 
広島県はこの度の合併が始まる前までは13市73町村でしたが、現在では14市9町となり、全国一合併の進んだ県です。その中でも我が町は最小の人口の自治体です。
安芸太田町の「安芸」は「安芸の国」を意味し、「太田」は太田川から名を取っていますが、江戸時代には現在の安芸太田町を構成していたか村を総称して「大田筋」と呼ばれていました(「おおた」の用字はもともと「大田」で、大正頃になぜか「太田」になった)。明治22年の市町村制施行の際その10か村のうち、穴村と坪野村が合併して安野村、津浪村と加計村が合併して加計村(明治31年に加計町)、下筒賀村と下殿河内村それに加計村、上殿河内村の一部が合併して殿賀村、上筒賀村と中筒賀村が合併して筒賀村が誕生し、上殿河内村が上殿村に改称、それに戸河内村(昭和8年戸河内町)の6か村となり、さらに昭和29年加計町と殿賀村が合併し加計町に、昭和31年に加計町と安野村が合併して加計町に、戸河内町と上殿村が合併して戸河内町になり、3か町村に再編されました。
それがこの度の合併で一つの町になったということで、ある意味で歴史の必然ともいえるのではないかと思いますし、公募によって決定された名称は、この地に恵みをもたらし続けてくれた自然や歴史を住民が誇りに感じている表れでもありましょう。
合併の際決定した本町の将来像「西中国山地に抱かれた暮らし・交流・元気のまち~豊かな自然、歴史文化を大切にし、多様な交流を育む~」の実現のために、町民と力を合わせてまちづくりを進めてゆかなければならないと、改めて決意を新たにする次第です。
平成26年度までの長期総合計画については本誌2569号で紹介していただいているので省略いたしますが、その実現のためには「自助・共助(互助)・公助」を基本とし、お互いの役割を認識する中で連携、協力し、行政と住民とが協働してまちづくりを進めて行くことが肝要です。 
それを推進してゆくには町職員自身が変革し住民と一緒になって地域づくり、まちづくりに取り組んでゆける態勢を築いてゆくことが先ず必要と考え、町内を31の地域に分け、一般行政職全員をそれぞれの地域担当とさせることにしました。主査以上の職員は総合計画策定時に町内を4地域に分け、地域づくり座談会を実施してきたので経験がありますが、他の職員は未経験ですので研修も実施し取り組みを開始することとしています。
職員にとっては何をすればいいのか戸惑いもありましょうが、地域に出掛けて行って住民と地域の課題を話し合い、共に課題解決や、地域づくりに参画しているうちに協働とは何かということを見つけることができるのではないかと期待しています。
これこそが「小さな町」を逆手にとってのまちづくりにつながるもので、「地方自治の本旨」にもかなうものであると確信します。 
私たちは経済成長の恩恵を受けましたが、同時に失われたものも数多くあります。財政状況の厳しい現在こそ、もう一度原点に返って家族の絆や、地域社会の連携について真剣に考える好機なのではないでしょうか。生育歴の違う自治体同士が結婚して2年近くが経過しました。一体感醸成のために試行錯誤の連続ですが、原点に返ることの大切さを実感している今日この頃です。