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わが人生に悔いなし

印刷用ページを表示する 掲載日:2006年4月17日

島根県 津和野町長  中島 巖


軍国少年だった私が終戦を迎えたのは、小学校六年生の時でした。敗戦のショックはありましたが、翌年の春、旧制中学最後となった入試を受験。幸いに合格はしましたが、故あって志望校での学生生活が出来ないうちに学制改革に遭遇。そのため新制中学を卒業、高校受験となったのです。が、ここでその後の私の人生を決定づける事態が起こりました。
受験準備を進めている最中に、村役場に勤めている先輩から進学をやめて役場に入らないかとの誘いを受けたのです。高校に入るよりも役場に入って、やがては村長になってはどうかとのすすめでした。確かに当時の村長は元役場の職員だった人で、過去にもその様な経歴の人が村長になっておられるとのことでした。この話を聞き迷いましたが、結局は将来村の長(おさ)になることを夢見て役場に入ることにしたのです。
ところが、数年後思いもかけない事が起こりました。それは、町村の合併です。私たちの村は周辺の村とともに、かつては郡都と呼ばれた歴史のある町と合併することになったのです。私は、この昭和の大合併に依って町の職員となり、町中にある本庁舎に勤務することになりました。村役場と違ってとまどうこともありましたが、それでも幸いに早くから合併協議会の事務局に出向を命じられていたお蔭で、他の職員よりは早い段階で町の様子を知ることができ、雰囲気にも馴れていたので、比較的苦労なく勤務することができました。ただ、村の長になる夢が潰えてしまったことは大きなショックでした。日を経るに従って無念の思いはつのるばかりで、遂には、ならばやむを得ないので、ここでもう一度勉強をし直して出直そうと考える様になったのです。
しかし、今更高校にという訳にもいかないので、ここは一気に大学に進学しようと考えました。だが残念乍ら高校を卒業していないので、受験資格がありません。そのため先ずは文部省の大学入学資格検定試験に合格しなければと考え、その準備に入りました。が、何しろ中学を卒業後特別に勉強したことはなく、それは大変なことでした。それでも寸暇を惜しんで猛勉強をした甲斐あって、目標よりも早く二年間(二回の受験)で全科目に合格をし、資格を得ることができたのです。そして、三年目に念願の志望大学の入試にもどうにか合格をすることができました。さあいよいよ新たな人生に向かって前進をと張り切っていたのですが、不味(まず)いことに、この事を両親たちに一切相談していなかったものですから、いろいろと意見を聞かされる破目になり、スムーズに事が運べなくなってしまったのです。職を捨てて遠く家を離れて行くことに賛成し難いというのです。ここは少し時間をかけてと考えているうちに段々と包囲網が敷かれていきました。
当時、従兄弟が東京近辺の国立大学の教授をしていたのですが、父が意見を求めたらしく、次の様な返信があったのです。従兄弟曰く、向学心は大切で素晴らしいことだと思う。努力も高く評価したい。しかし、今から大学に入ってそれから先がどうなるのかについては、何の保障もない。今、自分のところで学んでいる多くの学生達は就職先が得られず悩んでいる。この様な時、折角の地方公務員という職を捨ててまで大学に入るということは無謀であり賛成できない、思い止まることが賢明、とこの様な意見でした。更に中学時代の恩師等からも今の職場で真面目に一生懸命頑張ることこそ肝要だ、との意見が寄せられ、結局両親を始め周囲の者全員から思い止まる様説得され、遂に進学を断念せざるを得なくなりました。もうこうなったら、他に求める道は無く初心を貫き町の長になる以外にないと固く心に決め、一段と職務に精励することとなったのです。
その後長い期間を経て紆余曲折はありましたが、時機到来、多くの人のすすめもあって町長選挙に出馬、緒戦は現職との一騎打ちで激しい選挙戦でしたがお蔭様で当選。二期目は実に二十八年ぶりの無投票当選。そして三期目も引き続いて無投票当選の栄を与えていただきました。
この間に再び町村合併の問題が起こり、今度は五十年前とは違って職員としてではなく、首長として又合併協議会の会長としてこの問題に関わることになりました。いろいろと困難はありましたが何とか克服し、平成の大合併は成就しましたので、これを機に永年携わった行政から身を退きたいと願っていましたが、それも許されず新町の舵取り役となり今日を迎えています。
厳しい状況の中での町政運営は容易ではありませんが、自らが求めて来た道ですので、過ぎ去った日々に思いを馳せ乍らも悔いは無く、これが私の人生であり天命だと思い、人と自然に育まれ温もりのある交流のまちづくりに全力を傾注している昨今です。