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 私の心のふるさと 大山崎町

印刷用ページを表示する 掲載日:2006年2月20日

京都府大山崎町長  河原崎 進


大山崎町は、古くは、平安時代に山城の国の「国府」が当地におかれ、平安京の西の玄関口としてにぎわった長い歴史を誇る町であります。鎌倉・室町時代になると「大山崎」は荏胡麻油生産者である神人(じにん)たちの活躍により大きな経済力を持ち、活気に満ちた自治都市として広く知られるようになります。ひと昔前のNHKの大河ドラマ「国盗物語」に登場した齋藤道三も、この油商人から後に美濃の国主になった人物として知られています。
また、江戸時代には当地は八幡宮の神領として幕府から自治権を認められ、また街道沿いの宿場町として、長く賑わいを見せてまいりました。
明治に入り市町村制が施行されると、大山崎荘、円明寺村、下植野村の3村が合併し、大山崎村が誕生(明治22年)しました。
昭和7年、私が生まれた当時の大山崎村は、まだ都市化の波が押し寄せる遙か以前ののどかな農村地帯でありました。天王山に登れば、木津川、宇治川、桂川の三川が当地において合流し、その名前を「淀川」と変えて難波の都・大阪へと向かう雄大な景色を見ることができ、この風光明媚の地は、「大山崎山荘」(現=アサヒビール大山崎山荘美術館)の創設者である大正時代の実業家・加賀正太郎氏がこよなく愛した土地としても
知られているところです。 
さて、私が平成6年に町長に就任してまもなく、この「大山崎山荘」が、アサヒビール株式会社、京都府ご当局の大きなご理解・ご支援を得て、それまで地元で大きな問題となっておりました「大山崎山荘」を取り壊して、大規模マンションを建設するという計画案に終止符を打つことができました。
「大山崎山荘」は大正時代末期にイギリスの美しいハーフ・ティンバー様式を取り入れた洋風建築として建設されたものであります。
この建物が素晴らしい美術館として、近代フランス絵画・印象派の巨匠であるモネの一連の作品「睡蓮」をはじめ、民芸派の陶芸家・河井寛次郎氏、濱田庄司氏などの数多くの作品が常設展示され、世界的な建築家・安藤忠雄氏の設計による新館「地中の宝石箱」が建設されたことはもちろん、往時の雰囲気そのままに活かされた魅力ある本館そのものが、再び命を得たことは、たいへん喜ばしいことであり、深く感謝しているところです。
また、本町は、古くから東西を結ぶ交通の要衝としてJR東海道線、阪急京都線、国道171号といった生活交通網、名神高速道路、新幹線といった広域交通網が町域内を走っておりますが、去る平成15年末には、名神高速道路にインターチェンジ、そして京滋バイパス(第2外環状道路)に接続するインタージャンクションの供用により、高速道路のアクセスタウンとして生まれ変わりました。加えて、併設された国道478号により、久御山町、八幡市、京都市伏見区淀をはじめ、府内南部地域への交通も飛躍的に向上しました。
今後、本町から以北の第2外環状道路建設が進められますが、計画ルートが、大山崎中学校のグラウンドを横断することから、将来の町を担う中学校生徒達の教育環境を守るために、関係機関との協議を進めております。早急に教育環境を守ることができる回答を得るべく奮闘しているところであり、1日も早い解決を得たうえで、工事が進められることが求められております。
本町は、総面積が5.97平方キローメートル、そのうち市街化区域面積が3.18平方キロメートル。この狭隘な土地に高規格幹線道路が縦横に走り、町域を分断しており、その面積は0.25平方キロメートルで約8%を占めるという日本全国でも稀な町であると自負しております。非常に厳しい社会経済の影響のもと、町民法人税や固定資産税収入の低迷などによる危機的な財政状況にある中、もしもこれらの高規格幹線道路に課税が可能であれば収入増につながるとの思いもありますが、現在、町職員が一丸となって行財政改革に取り組み、健全な財政状況を1日も早く取り戻すよう鋭意努力を行っており、安心安全・住みよいまちづくりに努めているところであります。
私の町長就任期間も、早いもので、3期目の最終年を迎えました。今後も、関係の皆様方のなお一層の深いご理解とご指導・ご鞭撻・ご協力をいただきながら、微力ではありますが、町長として与えられた役目を果たしてまいりたいと考えているところであります。