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 自然との共生・文化の薫り「川西町」

印刷用ページを表示する 掲載日:2005年10月24日

自然との共生・文化の薫り「川西町」

奈良県川西町長  上田 直朗


川西町は、奈良盆地の中心部に位置しており、大和平野の各河川が私たちの町「かわにし」に向かって流れてまいります。そして、この地で各河川が一つとなって大和川となり、大阪に流れていきます。 

この大和川は、大和平野の水を集めて大阪へと流れていくわけですが、その源流は小さく、大きな山や深い谷は持っておりません。

北は奈良市を源とする佐保川、東はボタンの花で有名な長谷寺地方の山を源とする初瀬川、そして南は明日香地方を源とする飛鳥川、これらが大和川の源となっています。

何れもが浅い山、街、村の雨水や生活排水がその水流のなりたちの大半を占めています。 

このような現状に加え、上流地域においての住宅開発等の影響によりその水質は年々悪化し、常にワースト上位に位置づけられています。

この汚名返上のためにも上流地域での下水道等の整備が1日も早く進められ、水質が改善されることを住民の方々ともども願っている次第です。また、このような河川の状況から集中的な大雨が降れば、たちまち増水し、居住地や田畑より河川の水位の方が高くなる現象が起こり、付近の住民は力を合わせて桶門を閉め、河川からの流入を防ぎます。つまり、農地が保水地になるわけです。こうしたことが毎年繰り返されています。

また逆に、雨が降らず天気が続きますと、川床は干しあがり、水は全く無くなってしまいます。このような状況にありますので、普段の水量はほとんどありません。

このため、私たちの地域は、今でこそ河川の堤防も整備され、災害に対する危険は少なくなりましたが、先人たちは水つきや干ばつに悩まされながらも、互いに助け合い、協力しながら力を合わせてこの河川と共に暮らし、生活を送ってきました。 

こうした風土は、今もこの地に引き継がれていると感じています。このように河川と共に歩み、発展してきた町にも古い遺跡、史跡があります。

4世紀末頃の築造といわれる島の山古墳は、南北200mの大きさを持つ前方後円墳で、多くの古墳を持つ奈良県下においても20番目の大きさであるといわれており、平成8年の調査では、130点余の石製腕飾り類が発掘され、注目を集めたところです。

また、聖徳太子が斑鳩の宮から飛鳥の里へ通われたという「筋かい道」は今もその面影を残しています。

そしてこの度、世界の無形文化遺産に指定された能楽の観世流の発祥の地でもあります。

14世紀中頃、観世流の祖「世阿弥」は、父「観阿弥」がこの結崎の地で起こした大和猿楽の「結崎座」の座員となり、後に観阿弥の芸名「観世」をそのまま冠し、「観世座」とし、能楽へと大成させていったその地でもあります。

今は観世流発祥の地としてある面塚並びに、その周辺を「面塚公園」として整備し、保存に努めているところです。

私たちの「かわにし」は、このように古い歴史と共に歩んでまいりました。

現在の川西町は、明治21年の町村制施行により、6つの集落が1つとなって川西村として発足し、それ以後全く合併をしないまま、今日に至っています。都市近郊に位置するということもあり、昭和40年頃より住宅開発が行われ、一時は人口も1万人を超えたこともありました。 

しかしながら、最近においては、地方分権、行財政改革の下に市町村合併の流れがあり、本町においても2回にわたり、合併の協議の中に加わってまいりましたが、何れも成立には至りませんでした。

この流れは、これからも続いていくものとは思っておりますが、この地域に暮らす人たちのつながり、ふれあいの輪を大切にしながら、ぬくもりのある地域社会の醸成を図ってまいりたいと思っています。