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 タイ国在住三年間の思い出

印刷用ページを表示する 掲載日:2005年10月17日

沖縄県元城辺町長  仲間 克

今を去ること43年前の1962年5月、まさに青雲の志を抱いて沖縄県宮古島より、5人の若者がタイ国に渡った。 
当時の商社丸紅と大阪製糖の共同出資でタイに製糖工場を経営していて、そこでの砂糖キビ作りの指導員として、である。生まれて初めて渡る外国、そこの広大な土地。バンコクの街の大きさ、賑やかさ。見るものきくもの食べるもの、小さな宮古島で生まれ育った私にとっては、すべてが想像以上で感動の連続だった。
さて、バンコクで1泊して、翌日は工場のあるプランブリーへ。バンコクより250キロ南へ下ったところである。工場で宿舎を与えられて、いよいよプランブリー製糖工場の社員としてスタートした。
農務課で、担当地区を割り当てられ、直接キビ作農家相手の仕事である。
私はここに来る前は、農協で営農指導員をしていたので、砂糖キビ栽培の知識はもっているつもりであった。しかし、ここの畑へ行ってみると無農薬等、無肥料での栽培であり、植え付けて除草さえすれば後は収穫を待つのみである。宮古での栽培技術など話にもならない。
それに、何よりも困ったのが言葉であった。幸いにも、元日本兵で現地満期した社員が工場に2人いたので、晩にこの2人からタイ語を習った。ノートに書き写して、翌日農家に行き、会話を試みるが、てんで通じない。それも道理で、タイ語も文字で書けば同じでも、アクセントによって意味が全く違ってくる。「遠い」は「ガイ」、「近い」も「ガイ」、「ご飯」は「カウ」、「山」も「カウ」、「白い」も「カウ」である。 
しかし、何とか努力して6ヶ月位で、ある程度の言葉は話せるようになり、生活にも慣れてきた。ところが、その頃になるとだんだんとホームシックにかかってくる。月夜に月を眺めては、この同じ月を宮古の家族や友人達も見ているだろうかと思い、海へ行けば、この海も宮古の海へ続いているだろうと思うと、たまらなく帰りたくなる。いっそのこと、何もかも投げ捨てて帰りたい気持ちになったりした。
何とか辛抱して、1年が経つ頃になると、言葉もそれほど不自由しなくなり、遠く離れた街へ遊びに行ったりして、だんだんと楽しみも増え、仕事の面でも精神的にも余裕が出てきた。
あれやこれやで3年が経った頃、はたして将来ともこれで良いのだろうかと考えてみた。タイでの永住権(パーマネントビザ)も取得してあるし、永住しようと思えば永住もできる。たしかに、あの頃はタイで永住しようとも考えていた。あれだけの広大な土地や自然、未開地、まさにこれから発展する国であると確信していたからである。色々考えてみると、当時は世界の情勢も全くわからない、我が国日本の動きさえもわからない、井の中の蛙であった。考えに考えた末、宮古に帰って皆と一緒に頑張ろうという結論に達し、3年間勤めたプランブリー工場を、そしてタイ国を後にした。
宮古へ帰って、城辺町役場に1年勤めた後、議会議員3期、収入役、助役、町長と現在に至る。振り返ってみると、かれこれ45年が経つ。タイから帰国したその後、何度かタイ旅行に行った。 
ところが、あの頃と今とでは全く違う。あの頃の国道脇では、ハスの花が咲いていたり、トンボがいたりして、どこへ行っても閑かな感じがしたが、今は廃油等が垂れ流しになったりしている。今や、バンコクの街では車の洪水で大混雑、車に乗るより歩いた方が速い位である。昔の面影は全く感じられず、何とも淋しい感じがした。
今でも新聞やテレビ等で、タイのニュースや番組が流れると、いつも関心をもって見ている。私にとって、タイ国は一生思い出に残る国であり、第2のふるさとであり続けることだろう。
コプチャーイタイ・キットウンタイ
(ありがとうタイ・なつかしいタイ)