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 今昔長崎街道二人旅

印刷用ページを表示する 掲載日:2005年7月11日

今昔長崎街道二人旅

佐賀県江北町長 田中 源一

  
江北町は佐賀県のほぼ中央部に位置し、古くは長崎街道によって栄えた小田宿があり、現在もJR長崎本線と佐世保線の分岐点にあり、特急停車駅でもある肥前山口駅を有しており、今も昔も交通の要衝の町として栄えてきました。

昨年は、NHK衛星放送15周年記念番組として放送された、『最長片道切符で行く、列島縦断1万2千キロの旅』で、関口知宏さんが北海道稚内を出発し、ゴールした駅が肥前山口駅ということで本町が全国にPRできたことをたいへん喜んでいます。

また、昭和30年代は炭鉱の町として栄え、私が通った小学校は、生徒数3,000人を超すマンモス校で、町の人口も16,000人を超えていました。しかし、エネルギー革命により、昭和44年に炭鉱が閉山し、人口が1万人を下回る過疎の町になったばかりでなく、石炭採掘に起因する地盤沈下が生じ、鉱害の爪あとを残しました。

その後の30年間は、町は最重要施策として鉱害復旧に全力を注ぎ、平成8年度に完了するまで、約1千億円の巨費を投じて、全町復旧を終えました。

私が町長に就任したのは平成4年3月からで、まず、鉱害復旧の総仕上げを混乱なく成し遂げました。そして、佐賀県下の交通の、へその町として、利便性を生かし、定住促進を図るべく住環境の整備(道路と下水道)に取り組んできました。現在は、少子化を何とか食い止め、若い人に住んでいただけるように、小・中学1年生の給食費の全額補助を始め、未就園児在宅支援、障害児親子支援等、子育て支援に重点的に取り組んでいます。

さて、私の趣味は長崎街道を歩くことなのですが、そもそも私たち夫婦が街道を歩くようになったきっかけというのが、5年前の日曜日に、久々に休みが取れて、長崎街道をたどり佐賀駅まで歩いてみようと、ふと思いたったことでした。そして16キロの道を5時間かけて、歩いてみました。

これまで何百回と車で通った道でしたが、いざ歩いてみると、車からではわからなかった素晴らしい自然や当時の長崎街道を偲ばせる古い建物など、新しい発見に感激!牛津宿を過ぎ、歩きながらいろいろなことを話し合っているうちに、佐賀駅に到着。思ったより疲れが少なく、心地よい達成感に浸りました。

2回目は1年近く経ってからで、古地図と名所旧跡が書かれた本を片手に歩きましたので、旧街道の名残がよくわかり、楽しみが倍増しました。境原宿・神埼宿・中原宿・轟宿・田代宿・原田宿、とJR長崎本線・鹿児島本線沿いを歩き、5回目からは筑豊線沿いを散策し、特に冷水峠越えは難関で、獣道を歩くようでしたが、かえって昔の苦労がよくわかり、前後にある山家宿・内野宿は当時の名残を多く残した印象に残る場所でした。

続いて、飯塚宿・直方宿・木屋瀬宿・黒崎宿・小倉宿、と東の方に向かい、10回目にして目的地である『常磐橋』にたどり着きました。

9回目の木屋瀬は長崎街道の中でも、町並みの保存に一番力が入れられた宿場跡で、黒崎駅の近くには「曲里の松並木」として300メートルにも及ぶ素晴らしい松並木に出会い、感激しました。次に方向を変えて、西に向かって歩き、小田宿・北方宿・塚先宿・嬉野宿を過ぎ、いよいよ長崎県に入りましたが、彼杵宿の手前では美しい棚田に見とれて、道を間違えたこともしばしばでした。

14回目は、松原宿・大村宿と雪の降る山道や大村湾沿いを歩きましたが、寒さをあまり感じなかったのは、美しい雪景色が2人を応援してくれたからだと思います。永昌宿(諫早)・矢上宿を過ぎ、最後の17回目は西の箱根といわれる日見峠を越えて、目的地、長崎奉行所西役所跡(現在の県庁)に辿り着きました。

長崎奉行をはじめ、幕府の諸役人や諸大名、全国各地の承認や学者・文人・維新の志士等、様々な人が行き来し、江戸時代の政治・経済・文化に大きく貢献して、新しい日本を生み出す原動力となった街道を3年かけて17日間、84時間45分で歩ききった達成感に、夫婦で感慨ひとしおでした。

この長崎街道2人旅が終わり、感じたことは、めまぐるしく変わる現代において、便利さや速さは格段の感がありますが、人の心はそれだけ成長したのかと、先人たちの息づかいをあちらこちらで感じるにつけ、『狭い日本そんなに急いでどこへ行く』『今の日本これでいいのか』と強く感じる次第です。