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戦後60年の今日の慨嘆

印刷用ページを表示する 掲載日:2005年4月25日

宮崎県 (前)北川町長  盛武 義美


私は、昭和20年4月6日宮崎県立富高農学校に入学した。日豊本線日向長井駅から富高駅(日向市駅)まで、途中で延岡市、門川町を通る1時間の汽車通学である。
その年は毎朝空襲があり、5月に実習畑で艦載機グラマンの機銃掃射をうけたこともある。
そして8月15日、歴史は180度転換する。
わが北川町は農山村である。面積は約280平方キロ、昭和33年頃、町には9,930人もの住民がいた。戦前戦後を通じ、兵役者を送り出したこと、食料・薪炭や木材の供給、集団就職者を都会に送り出したこと等は国に対する農山村の大きな貢献であった。所得倍増政策の恩恵は受けたものの、その後の過疎化、少子高齢化の時勢の大波が次々と押し寄せ、現在の極めて厳しい時代に直面することとなった。
私は、昭和28年に役場職員となり、37年間の勤務を経て平成3年5月に町長に就任し、現在4期目である。
平成の市町村合併では、北川町は自立を選択したが、合併を進める会では、2度に亘る議会での否決も配慮せず、遂に町長の解職請求(リコール)を始める事態となった。議会の決定と町長の見解は一致しているにも関わらず、である。
自立に至った理由は、合併のメリットが見えず、また昭和の合併後の状況が良くないことや、相手とする市の財政状況が厳しいことによる。しかし、自立のための地域課題も少なくない。
小泉内閣の聖域なき構造改革の下で失われていく農山漁村の自治体と、近年の世情の悪化には何か深い関係があると思われてならない。
かつて1世紀前の英国では、地方政策をおろそかにし、都市政策重視に傾いたところ、都市には人が溢れて治安が乱れ、失業者も増加し、また災害対応力が衰える一方で、農山村では農地、山地が荒廃し、いわゆる故郷の廃屋が続出した。この状態を憂えて英国は以後この轍を踏まない政策に切り替えることとなった。この話は、全国山村振興連盟総会での来賓の挨拶にあったものである。
地方の農山漁村が食糧の供給や自然環境の保全、歴史や伝統文化、体験学習の場として、さらに都市住民の癒しの場として、国家や社会に大きく貢献している役目は今も昔も寸分も変わっていないのである。人間が自然の一員である以上、自然を求める欲求の持ち主であることも当然である。人間社会が健康で豊かになり、おだやかに楽しく過ごせる社会を構築していく上で、地方の農山漁村が重要であるとの認識を再確認する必要はないのだろうか。
古来、ただでさえ人は田舎より都会に憧れてきた。従って、何も施策がなければ田舎はさびれるのであるから、国の政治が地方の農山漁村を保護、補完し、その地域を掌る自治体を支援し、保障することの重要性を再認識してもらいたいと願うのである。都市と農山漁村の自治体の在り方は、別建ての方が良いとかねてから信じてきた。日本の地方行政の進め方は、日本の将来の為にもう一度ゼロから考え直すことは出来ないのだろうか。
地球温暖化対策の為の、国土における森林地帯の保全の役割を担っていることに加え、少子高齢化社会の健全な方向への軌道修正の原点もここにあるのではなかろうか。
振り子は戻ってくるはずだと思いながら、地方再生の日を夢見る昨今である。