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 「三位一体の改革」の面妖

印刷用ページを表示する 掲載日:2005年2月21日

岐阜県御嵩町長  柳川 喜郎


「改革なくして成長なし」に始まり、郵政改革、年金改革、教育改革等々、まさに改革ラッシュだが、どれもワンフレーズ・ポリティックス、スローガン政治の面目躍如である。
しかし、その実効となると、よく見えてこないのが実情だ。なかでも面妖なのは、私たち町村を巻きこんだ「三位一体の改革」である。
そもそも「三位一体」というネーミングからして奇妙である。「三位一体」とは、キリスト教の基本的教義―神とキリスト、そして聖霊は一体であること -Trinity- の訳語である。
比喩的に用いるにしても、原意からかけ離れているし、神社参拝に熱心な首相が、キリスト教の基本的教義に由来する「三位一体の改革」を声高にいうこと自体、面妖である。
昨年暮にまとまった「三位一体の改革の全体像」に至る経緯も不思議といえば不思議である。
本来、この手の重要な改革は、政府が地方自治体サイドと時間をかけて広く論議して、まとめるべきものと思うが、政府は地方六団体に対し、国庫補助負担金改革の具体案を取りまとめるよう要請した。三位一体といいながら、なぜ国庫補助金改革についてだけ、しかも口頭で丸投げしたのか、私の頭では理解できない。
政府の要請を受けた地方六団体の会長は、一か月余りの間に、頻繁に会談、協議したという。結局、「小異を捨てて大同につく」ことで、知事会案を了承し、地方6団体の改革案として政府に提出したそうだが、この間、全国町村会の末端の一員である私たちの段階では、検討、協議の時間はなかった。
国庫補助金、税源移譲、地方交付税のあり方は、私たち町村にとって死活にかかわる重要な問題である。それを広く深く論議することなく、強力なリーダーシップとやらで、短兵急に拙速で決めた手法はとても理解できない。
それに、一概に地方六団体というが、都道府県と市町村では立場も利害も大いに異なる。たとえば国民健康保険の負担については、都道府県と市町村の利害は微妙に違う。
地方自治の根幹にかかわる問題だけに、無原則、無定見な付和雷同はいかがなものだろうか。
どなたかは存じあげぬが、全国町村会のある幹部が、「三位一体の改革で都道府県は税財源が増えるが、町村は減る一方。何の得にもならない」と、お漏らしになったそうだが、むべなるかなである。
最近、試算した我が御嵩町の「三位一体の改革」の当年収支損得勘定は、補助金廃止分7,978万円に対し、税源移譲分6,800万円、都合1,178万円のマイナス勘定である。全国町村会幹部や私の見込みどおりである。
地方六団体の改革案を受けてまとめられた政府の「三位一体の改革の全体像」の内容は、とても合格点をつけられる代物ではない。
もともと「三位一体の改革」の本音、ほんとうの動機が、破綻した国家財政の対策の一つとして、地方自治体への国の支出を減らすことにあったのだから、当たり前といえば当たり前だが、巷間いわれているように、義務教育はいかにあるべきかなど、基本的な論議はそっちのけで、借金のツケまわしの数字合わせに終わってしまった。それに「三位」のうち、もっぱら国庫補助金の削減にスポットが当てられてしまったことは、地方自治体にとっては災難であった。税源移譲は二の次、地方交付税にいたっては三の次にされ、先送りにされてしまった。官僚たちの術策にはめられたのか、これまた面妖である。
地方自治体にとって「三位」のなかで最も重要な地方交付税は、さんざんカットされたあげく、2年間は現行額が保障されたが、その先は大幅削減、全廃論まであって、まさに風前の灯である。
補助金、税源もさることながら、地方交付税制度はなんとしても堅持しなくてはならない。
地方交付税制度には、すべての地方自治体に一定の財源を保障する機能、それに自治体間の格差を調整する機能の二つの立派な機能がある。現在の地方交付税制度ができて半世紀を越え、改善を要する点は多々あるが、いまでも地方交付税の存在理由(レーゾン・デートル)は、いささかも失われてはいない。
地方交付税の問題点は、そうした本来機能から逸脱して、国の地方コントロールの手段として、ハコモノなど地方事業債の元利償還に流用されてきたことにある。本末転倒の面妖な論理に惑わされてはいけない。
「平成の大合併」で町村の数は大幅に減る。地方自治の本旨実現のために、全国町村会はこれまでより勁くならなければならない。「(国と)闘う知事会」があるなら「(国や都道府県と)闘う町村会」があってもいいのかもしれない。
いずれにせよ、いま焦点になっている郵政民営化で、構造改革一丁あがりとすれば、これは大いなる面妖といわなくてはならない。