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 今、瀬戸内海の島で

印刷用ページを表示する 掲載日:2004年6月21日

今、瀬戸内海の島で

広島県豊町長 長本 憲

 
豊町の大長地区は、瀬戸内海のほぼ中央に位置する大崎下島の東側にあります。地元の祭礼でも「大長よいとこ東を受けて、みかんばかりの山と谷」と歌われていますように、島の頂上まで開墾した段々畑一面に、みかんを栽培する島であります。見上げるばかりの急傾斜地に植栽されたみかんは、「大長みかん」として高い評価を受け、近隣の島々にも出作りをするなど大きく農地を拡大して繁栄してきました。児童文学者の椋鳩十氏は、全島がオレンジ色に色付く秋の様子と合わせて「黄金の島」と評しています。しかし、昭和30年代以降はオレンジの自由化や嗜好品の変化などによりダメージを受け、衰退の一途をたどっています。そうしたみかん産業の衰退を押し止めるために、農地をイノシシ被害から守ろうと集落共同で防護策を設置したり、新品種への転換を図るなど現状を乗り切るために苦闘をいたしています。

そうした状況にある島の南東側には、御手洗地区があります。その御手洗は、江戸時代中頃発達した沖乗り航路により、北前船の寄港地として、栄えた港町であります。「離れ島でも御手洗は港よ、軒の下まで船がつく」歌い継がれているように、天然の良港であった御手洗沖に、風待ち・潮待ちのために多くの船が停泊をし、かなりの栄華を誇っていた様子が伺われます。

そうした史跡が残っている御手洗地区を、観光地として再興できないか、平成2年に観光資源調査をいたしました。その緕果、史跡個々の評価は低いものの、広島大学建築意匠学鈴木充教授によると「江戸・明治・大正・昭和の各時代の家屋が混在した建造物群として、地域全体の風情を含め歴史の流れを映し出している。」との高い評価を受けました。点で捕らえるよりも面で捕らえることによって、その評価が一変したのであります。住民の皆さんにとっては、大変な驚きでありましたが、平成6年に重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けたのです。

今回の選定は、住民が主体的に展開した運動から発生したものではなく、いわゆる行政主導で進めたものでありましたが、地元郷土史家の木材吉聡氏を中心に歴史の勉強会や観光客に対するボランティアガイドが始まり、住民の中からも保存地区への選定をチャンスに町興しをしようと「重伝建を考える会」が発足しました。史跡の美化運動への働きかけや地元の文化活動をより効果的にしていくために、活動している雅楽の演奏会や俳句会の記念イベントを催すなど、地域ぐるみの取り組みとなってきました。

さらに「住民みなガイド」を目指して開催する御手洗史の勉強会へ参加するなど、より能動的な動きも見られるようになりました。会長の長浜要悟氏によると、『「住民みなガイド」の活動により、住民が観光客に接することを厭わなくなり、知っている範囲で、自分の町を「語る」ようになってきた。「自分の町のことを語ること」が自分の町に誇りを持てることであり、「語る」材料を自分で見つけることが、地元の歴史を知ることであり、文化を継承することになっている。』とその成果を強調されています。

又、昨年からは、女性会員の発案で各家の軒下を「一輪挿し」で飾るというボランティア活動も始まりました。町並みの雰囲気が一変し、より心を和ませるようになりました。これとてもお客さんのためにするのではなく、自分たちで畠を作り、花を育て、それを空き家にも飾って楽しんでいる女性グループが誕生しました。まさに『青い鳥』は目の前にいたのです。自分たちも楽しみ、観光客にもほっとしてもらえる町づくりが、その目指すところであります。

先人の築き上げてきた「大長みかん」にこだわりながら、その転換や時代の流れに苦闘しているみかん産地と、過去の歴史を財産にして新たな一ページを開こうと果敢に挑戦している地域を、合わせ持つ島があります。まだまだ「どんな花を咲かせようとするのか、どんな花が咲くのか」見通せていませんが、住民を巻き込んで「さしあたり何かをしている」島が瀬戸内海にあります。市町村合併後の新市の中でどのような展開ができるのか、島嶼部を連絡する架橋の開通により本土と陸続きになった後、島がどう変貌して行くのか、その行く末を見届けて行きたい。