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 昔の遊び、いまの遊び

印刷用ページを表示する 掲載日:2004年3月29日

宮崎県町村会長
 宮崎県綾町長
 前田 穣

今年の正月は殊のほかポカポカ陽気で気分的にもゆったりとした時を過ごすことが出来、天に感謝したい気持ちでいっぱいだった。そして今年一年が平穏な年でありますようにと念じたとこである。
一方、正月を迎えたと言うのに最近では年のせいかもしれないが、一向に正月らしさが伝わってこないのである。勿論正月を迎えるにあたって年末からの諸準備、元旦には近くの神社への初詣や年始の応対など例年どおりで慌しいのであるが、何か物足りない気分にさせられる。どうしてだろうと思うのだが、一つには正月の風物詩が周りから消えてなくなり、テレビドラマぐらいでしかお目にかかれなくなったことにもよるのかも知れない。自分の子供の頃の正月時分の遊びといえば、男なら凧揚げやコマ回しに熱中したものだったが今では廃れてしまい、子供たちの賑やかな声も聞かれなくなって久しい。
子供の遊びは時代の背景によって変わっていくことは仕方の無いことであろうし、当然のことのようにも思う。しかし子供の遊び方が気になって仕方が無いのである。以前は子供の数も多く遊ぶ場所も野外であったこともあり、集団で遊ぶことが普通であった。そしてそこにはボス( リーダー)が居りそのリーダーの統率のもとに秩序が保たれていた。グループの仲間は上級生から下級生まで含まれており自ずと序列なるものが存在し、はっきりしないところは理不尽と思うのだが、ボスの命令で無理やり喧嘩をさせられ順位が決められることもあり一種の階級社会が出来上がっていて、そのなかで人との接し方や事の善し悪しの見分け方など、社会生活の基本が知らず知らずのうちに身についていたのだと思う。
ところが昨今の子供たちの遊ぶ様はどうかと言うと、屋外での遊ぶ姿を目にしなくなったし、ましてや集団で遊ぶことなど稀有な存在であろう。テレビゲームの凄まじい発展普及によりブラウン管を相手に一人で過ごす時間が多くなり、遊ぶのに他人を必要としなくなったし、バーチャル空間に浸っていれば自由勝手な思いのままの世界が描け、友の存在は不必要となりうるのであり、独善的で思いやりや協調性に欠ける恐れのある子供が増加しているのではと危惧している。
ところで近頃の児童虐待、低年齢化する痛ましい事件や非行に走る者の増加の遠因も勿論少子化等社会生活環境の変化によるところが大きく影響しているのだが、これによるところも大きいように思う。今日ではコンビニエンスストアなどの進出で、夜中であろうと何時でも買い物等ができ、夜昼の区別が無くなり生活のリズムが乱され非行化につながる恐れが高くなっているが、自分たちが子供の頃は、兄弟喧嘩や遊び疲れで夜になるとぐったりして、夜歩きなどとても出来るような状態ではなかった。このことを思うといま少し子供たちが昼間にエネルギーの発散が出来るよう工夫を凝らす必要があるのではなかろうか。
我が町では各集落に自治公民館が設置され、それぞれ地域の実情に応じた活動やまちづくりの共通課題に取り組むなど、町にとって欠くことのできない組織があり、それと連携を図り小学生では夏休みの登校に替えて公民館へ登館させ、地域の人々との様々な体験や交流を通して昔から伝わる生活の知恵や工夫を学び農村文化の継承を促す共に、地域の教育力の向上に努めている。中学生についても町営施設を利用した集団合宿や、少年自然の家に宿泊し自然の学習や集団生活の体験を重ねることにより、チームワークを学び、郷土の良さを見つめなおし、愛郷心を高め情緒豊かな青少年を育てる試みを始めたところである。
まちづくりは人づくり、人づくりはまちづくりであると考える。郷土に誇りを持ち・夢と希望を持った健やかな青少年が育つよう地域と一体となって取り組んでまいりたい。そして物の豊かさから心の豊かさが尊重される社会を目指してまいりたい。