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 私の大いなる田舎の原風景

印刷用ページを表示する 掲載日:2003年9月1日

福島県大玉村長  浅和 定次

村長室に、セピア色のモノクロ写真が数枚貼られた手作りの木枠のパネルと、油絵が懸けてあります。村長席の正面に懸けられた写真と絵は、仕事の合間にふっと顔を上げるとそれはいつも私の目に飛び込んでまいります。これは、私にとっての癒しでもあり、戒めでもあります。
昭和28年、中学校3年生の秋、待望の新校舎が完成しました。写真は、その竣工を記念して校舎に掲げられていたものです。昭和51年に、2校統合の中学校が鉄筋コンクリートで建設され、その校舎は取り壊されました。解体時に写真を保管していた方が、私の村長就任を契機に、村長室に懸けるようにと持参されたものです。
もう一枚の油絵は、本村出身で、千葉県在住の画家として活躍されている斎藤良夫画伯が「早春のあだたら」と題され、村に寄贈された50号の作品です。春まだ浅い残雪に白く輝く安達太良山と、裾野に広がる木の芽時の穏やかな農村風景が描かれております。
大玉村は、県都福島市と経済県都郡山市のほぼ中間に位置し、秀峰「安達太良山」の豊かな自然と美しい景観は、村民の自慢であり、心の拠所でもあります。そして、安達太良山から流れ出る清廉な水は、山裾に広がる広大な耕地を潤し、大変美味しいと評判の大玉の米をも育んでおります。村の東部を国道4号線、東北自動車道、東北本線が通り、近隣市町村への通勤者が多く、兼業率が非常に高く、人口は現在8,600人、微増ではありますが毎年増えつづけております。
私は、村長に就任するにあたり、村の基本的なあり方として、現在そして将来にわたり、村にとって、村民にとって、守るべきものは何か、変革すべきものは何かを明確にする必要があると考えました。社会も政治経済も常に留まることなく動いています。そのスピードとパワーは時々の情勢により強弱は有るとしても、地方自治体は、その都度その荒波にもまれ大きく揺れ動きます。現在までの全国総合開発計画等を受けての全国の自治体の経過は、既に皆様ご存知の通りであります。私は、ある意味そのようなものに振り回されない、確固たる方向性を持った村づくりの実現を目指したい。目の前にアメがぶら下がっていようが、後からムチでたたかれようが、それが住民にとってどうかという観点で踏ん張っていきたい。
セピア色の写真には、更地となった中学校校庭に材木が転々と積み上げられたもの。建前(上棟)が終わり、骨組みなった校舎の2階の屋根まで、丸太の足場が組まれ、急傾斜で架けられた足場板には、制服に学帽を被った男子中学生が、足場の途中から屋根の上まで一列になり、屋根瓦をリレーしているもの。校庭から足場の下部分には同じように制服姿の女子中学生が並んでリレーしているもの。そして、立派に完成した校舎の前で全児童が並んだ記念写真。たまたま私が生徒会長だった為、当時の村長に校舎の新築に対し謝辞を述べている写真。
懐かしく眺めると共に、写真の中の原風景は、折々に語りかけてきます。「為政者の陥りやすい独善、専横、押付等はないか。さらに村民の皆さんと手を携えての協働の村づくりは進んでいるか。村出身者が、どこに住んでいても、自分のふるさとの村を懐かしくそして、誇りに思えるような「大玉風でつくる大いなる田舎」づくりに身を粉にして励んでいるか、しかし、時々は立止まりふっと息を抜き、女房孝行もせよ。」と。