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 大祭礼に思うこと

印刷用ページを表示する 掲載日:2003年7月7日

茨城県金砂郷町長  成井 光一郎

1200年の間連綿と継承され、72年ごとに行われる金砂神社の大祭礼が無事に終了をして3ヶ月が経過した。多くの人に出会と感動を与えたその余韻が今の不安定な時代を明るくしてくれるのではないかと期待をしている。それにしても1200年と言う歴史には重みがある。我々が重大事として大騒ぎをしていることなども、歴史的には取るに足らぬ小さな出来事として忘れ去られてしまい、後世まで伝えられるものがあるのかどうか自信がない。延べ10日間に渡った東西金砂神社の大祭礼が現代人に与えた影響はいろいろな意味で大きいものがある。
私の父は勤務の関係で栃木県日光市に住んでいたことがある。東照宮の境内にある安養院というお坊さんの宿舎の離れを借りていたのであるが、私はそこで生まれた。生地を尋ねられた時「日光東照宮の境内」と答えるとたいていの人は目を白黒させる。大方は捨て子かなにかを想像するのであろう。4歳ぐらいで金砂郷町の実家に戻ったのであまり記憶は無いが日光に行った時に、安養院の門前にたたずむと何か懐かしい思いをする。3年ほど前、栃木県の依頼で村おこしの講演を行ったことがある。その折、同席した日光市の市長の話で安養院の跡取の慈光さんが現在は長野市の善光寺の貫主になっていると聞いて驚く。善光寺には幾度か訪れたが自分の関係者がそこの責任者になっているなどとは想像も出来ないことである。
私の家の近くに佐竹北家の菩提寺であった萬松山常光院がある。檀家は260軒ほどで曹洞宗の禅寺である。かねて、本寺と末寺との関係はどうなっているのか、お坊さんの世界とはどのような世界なのか、疑問に思っていたので父の跡を継いで総代になった機会に本寺である福井県永平寺の座禅に参加することにした。福井市から永平寺線で向かったのであるが、電車の都合でどうしても決められた時間より20分ほど遅れてしまうことになる。ところが事情を良く判っているはずの受付の若いお坊さんに、「時間に遅れるようでは座禅などしても仕方が無い、帰ってくれ」と散々怒鳴られる始末。それでも何とか頼み込んで参加させてもらったが、ここでは老若男女年齢社会的地位一切関係無しということで、1週間徹底的にしごかれて体重が3キロほど減った。世間の理屈など一切通用しない世界であるが、この厳しい修行が朝の3時から夜の9時まで、750年の間、1日も休むことなく続けられてきたということは驚異的なことである。お坊さんの世界と我々娑婆の世界とは精神面で根本的に異なるものであることがわかったような気がした。
佐竹家が秋田へお国替えとなったとき、佐竹北家は角館町に移封された。菩提寺である常光院も角館町に移り、久米山常光院として存在している。以前、角館町の常光院の住職が亡くなり、本町の住職が葬儀の導師をつとめることになった。そのお供をしたのであるが、そのとき出会ったのが角館常光院の総代佐竹敬久氏である。敬久氏は佐竹北家の末裔で現在は秋田市長を務めている。佐竹北家との歴史的なつながりから、金砂郷町と角館町は有縁友好の町として、交流を行っている。大祭礼には佐竹家も大いに関係があるので、角館町の三役、議員を水木の浜の祭礼に御招待申し上げた。その夜は、本町の関係者と懇親会を催し、飛び入りで橋本県知事も参加をしていただき秋田弁、茨城弁が入り混じり、行列を迎えるにふさわしい一夜となったのである。
現在、公務の合間に裁判所の調停委員や教誨師後援会の仕事に携わっている。調停委員として20年間様々な人間模様に係わってきたが建前と本音の間に人間の弱さを垣間見る思いがする。その弱さをいくらかでも支えるのが信仰心であろう。また不幸にして罪を犯して服役をしている人達に人の道を教え、諭し、真人間に戻す努力をするのが教誨師である。いろいろな宗派の宗教人がボランテアとして参加をしているが、この教誨師の皆さんを後援する会が結成され、自分もお手伝いをしている。教誨師というとあまり聞きなれない言葉で一般の人達には理解されにくい面もあるが犯罪者が少しでも更正の道を歩むようになって欲しいと皆一生懸命である。
考えてみると自分としては特に宗教を信じているわけでもないが、これまでの人生で意外に神社や、お寺、宗教人との係わり合いが多いような気がする。今回、大祭礼に携わることが出来たのも有難いことである。72年後の人達に宛てた手紙をタイムカプセルに封入した。後世の人達がどのような思いで開くのか楽しみである。